【ボスニア・ヘルツェゴビナ旅行記】Day1・2 サラエボって本当はどんなとこなんだろう

世界史をほとんど勉強していなかった自分でも、さすがに第一次世界大戦はサラエボ事件がきっかけとなったことぐらいは知っていた。そして最近までボスニア・ヘルツェゴビナでは内戦が行われていた。その舞台となったサラエボ。
以前、池上彰氏の「戦争を考える」という番組で、ボスニア・ヘルツェゴビナのことをやっていて、内戦当時は相当悲惨な状況だったということを初めて知った。

そんな歴史を持つサラエボは、その名を聞いただけでは「なんだか恐いところ」という勝手なイメージを持っていた。
実際のところ、現在はいろいろな事情はあるものの、それなりに平和になっている。平和になるのはすごく良いことなのだが、
同時に過去のそんな悲惨な歴史はいつの間にか人々の記憶の中から忘れ去られてしまうんぢゃないだろうか?
過去の悲惨な歴史を繰り返さないためにも、忘れ去られてしまう前に自分で見ておこう!と思って出かけた
ボスニア・ヘルツェゴビナの旅。

今回の旅の目的は、サラエボに限らず、歴史の舞台となったところを、実際に自分でまわってみて「本当はどんなところだろう?どんなことがあったんだろう?そして今はどんな状況になっているんだろう?」というのを肌で感じることにする。

ということで、サラエボに加えて周辺の国にも行ってみることに。ターゲットは「ドイツのベルリンの壁跡」「最近のウクライナ紛争の発端となった自由広場」そして、ついでにトランスファーで立ち寄ることとなったトルコを少し観光してみます。

さて、今回の旅は成田から出発。ゴールデンウィーク前に何日か休みを取ったスケジュールにしたので、
成田は空いてるのかと思いきや、出国審査でこの並びよう。入国の際に並んだ事はあるけど、
出国でこんな並んだことはないなぁ~。

サラエボへは直行便が無いので、今回はトルコ航空にてイスタンブール経由でサラエボへ。まずはイスタンブールに向う。

いろんなサイトの情報ではトルコ航空のサービスは優れているという意見が多く、機内食も美味しいと聞いていたので、かなり期待をしてしまっていたが、個人的感想では普通の機内食だった。

さてこれからしばらくはこんな食事が続く。

離陸してから眠ってしまい、起きたときには「お~、だいぶ経ったなぁ~、もうすぐ着くかな?」と思って、座席のフライトステータスを見てみたら、まだまだ中国の上空だった。「まだまだ」にも程があるってぐらいの「まだまだ」ぶりだった。結局フライトは12時間ぐらいかかったのだが、もう耐え切れないぐらいのヒマっぷりだった。

そんなこんなで、拷問のような12時間をなんとか耐えて、無事イスタンブールに到着。
トランスファーの時間があまりなかったので心配していたが、問題なくサラエボ行き飛行機に乗り継ぐことができた。
にしても、イスタンブールの近距離国際線の搭乗口は長距離国際線の搭乗口と違って、かなりゴミゴミしていてプチカオス。待合席の空席が見つからないぐらいだった。

イスタンブールからサラエボへは1時間半ぐらいで着いてしまうのであっという間。

さて、サラエボの空港は「これが一国のメインの国際空港か?」と思わず言ってしまうようなぐらいのこじんまりさで、イミグレとかも数ブースしかなく、日本で言ったらどこかの地方空港といった感じだった。千歳空港の方が比べ物にならないぐらいに大きく、広島空港よりも小さいといった感じ。

サラエボの空港から市街に出るには、以前はほんの短い期間だけバスも通っていたらしいが、現在はタクシーのみ。路線バスの通っている通りまで行きたかったのだが、運悪く自分がサラエボに到着した時は夜だったうえに雨も降っていて素直に諦める。

とりあえず空港内にあったインフォメーションで、タクシー代はどのぐらいか聞いてみたところ、10ユーロぐらいで、場合によっちゃぁ15ユーロぐらいかかるとの答えだった。
ボスニア・ヘルツェゴビナの通過は「兌換マルク(KM)」という通過で通常○○マルクと表現されるのだが、
いろんなところでチョイチョイ「○○ユーロ」と答えられて(おそらく、外国人観光客でも感覚的に分かりやすいように、親切心でユーロで答えてくれているんだと思われる)、
手持ちにマルクしか無い自分は、わざわざ「ユーロ→マルク→円」といった感じに変換しなければならず、若干ありがた迷惑的なところがあった。

そんなタクシー代情報だったのだが、「う〜ん、事前情報よりも高いなぁ〜」と思いつつ、空港出口で客待ちしていたタクシーに乗ると結局30マルク(およそ15ユーロ)をきっちり取られた。その後宿のおばちゃんに
「それは高いわよ〜、空港からだったら10ユーロ(20マルク)が妥当よ」 と言われたので、やはり軽くボラれた感は否めないが、夜だったし雨だったのでしょうがないと自分に言い聞かせた。

さて、ここからはサラエボを発つ日の飛行機待ちの時間に調査した内容なので、自分は実際には利用していないのだが、
もし今後サラエボに来る機会があったら参考にして欲しい。

空港の駐車場を抜け、空港の前を走っている道路に一応「36番」のバスが止まるバス停があった。このバスはとりあえず
トラムが走っているところまでは行くようだったので、このバスに乗ってトラムに乗り換えれば市街まで出られると思う。
ただし、勝手な想像だがあまり本数が無いので、相当待った挙句、結局来なかったという事態も考えられるのでそのつもりで。

もうひとつ市街まで出る方法は、空港前の道路をさらに突き進み、住宅街の中をどんどん進んでいく。
んで、車通りの多い道路に出たら右方向に曲がると、「KONZUM」というサラエボではそこらじゅうにあるスーパーが
あるので、そこの前ぐらいに「103番」のトロリーバスのバス停がある。103番のバスについては「地球の歩き方」
にもちょいちょい出てくるが、このバスは市街の「サラエボ事件現場」付近まで行くので使えると思う。
しかも、この「103番」のバスは、自分がこの旅で街中を歩いているとちょいちょい見かけたので、本数はわりと多いと思う。
トロリーバスなので、上を見上げてトロリーバス用の架線があればそこはバスが通る道路だと確認できるし、
道路の上に架線がなければ、そこはバス通りではないことが確認できる。

以上が空港から市街へ安く出る方法の解説だが、やはり慣れない土地に詳しくない情報でいきなりローカルバスとかは
きついので、バスを使うのならば昼間に限ると思う。やはり夜は素直にタクシーに乗るべきだと感じた。

バスは2マルクぐらいあれば足りる。チケットはドライバーから買う。したがってあらかじめ小額のお金を用意して
おいた方がよく、大きなお金だと嫌な顔をされるか、最悪の場合受け取ってもらえないかもしれない。自分はデビットカード
でATMでおろしたので最初から大きなお金で、その後小銭を作るのに苦労した。デビットカードやクレジットのキャッシングは
レートが安定していて、現金をたくさん持つ必要がないので便利なのだが、最初から小銭をゲットしにくいという不便さも
今回改めて感じた。現金の両替だったら、最初から小銭をゲットできる可能性が大きいのでその心配は要らないと思うが・・・。
最初から大きなお金しか手に入らなかった場合は、空港内のキオスクで無理やり飴やガム等を買って小額のお金を用意すべし。

103番のバスに乗るために空港前の道路から住宅街を突っ切っていくには、この「HOTEL」の看板のところを入っていくと良い。
(朝に写真を撮ったので、超逆光で見にくいのはカンベンしてください)

住宅街を抜けて車通りの多い道路に出たら右に進む。すると「KONZUM」というスーパーがあるので、その前のこのバス停で
待っていれば103番のトロリーバスが来る。

ちなみに空港前の道路にも一応バス停の標識が立っていたので、待っていたらバスがくるのかもしれない。

サビサビのバス停表示からかろうじて「36」の表示が確認できるので、36番のバスは来るようだ。36しか書かれていない
ので、それ以外のバスは来ないみたい。

自分は実際に乗っていないので、いろいろなサイトの情報と自分の勘で書くと103番のトロリーバスは多分こんなルートを
通って市街(バシチャルシァ)付近まで行く。ちょうど「サラエボ事件現場」の近くにある小さなバスターミナルに
止まるので、バシチャルシァ付近に宿を取っていたら、すごく使えると思う。

今回サラエボで泊まったホテルはHostel Kod Keme
( http://www.kodkeme.com/ )
というホテルで、日本でいう「民宿」的な感じで、設備はすごく充実している
わけではないし、新しくもないので「とりあえず泊まれるホテル」という感じだった。しかしながらBooking.comの
評価は異常に高く「何でこんなに高評価なんだろう?」と口コミを見ていたら「おかみさんがすごくいい人」と
書いてあった。

んで、実際その「おかみさん」と話したら、本当にいい人ですごく親切だった。マップをくれたりフリーの
ツアーを紹介してくれたり、サラエボを発つ日の空港までのタクシーの手配をしてくれたりした。
ちなみに自分は常に部屋を片付けてから出かけていたら、戻ってきた時におかみさんに「あなた、本当に綺麗に
部屋を使ってくれるのねぇ〜。ひどい使い方をする人も多いから、あなたみたいな人がお客さんだと助かるわぁ〜」
と逆に褒められてしまった。

ということで、施設は決してよくないのですが、信頼できるおかみさんがいるので、女性の一人旅なんかには
すごくオススメなんぢゃないか?と思う。値段もそんなに高くないし、場所もバシチャルシァのすぐ近くで、
トラムの駅にも近く、すごく便利。

そんなこんなで、日付は変わって2日目の朝。昨日は本当に日本からの移動だけで終わってしまったが、
今日はサラエボの見たいところを時間が許す限り見ようと思う。

まずはホテルのすぐ裏手にあって、かなりの存在感をかもしだしていた「ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャーミヤ」に向かう。

かなり早い時間に行ったので空いているかどうかもわからない感じだったが、ここはサラエボでは
結構重要なイスラム教のモスク。モスクの敷地内には噴水等もあってかなり大きなモスクだった。

ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャーミヤからほんの少し東側に行ったところは「バシチャルシァ」。ほぼここが観光の
中心街となっていて、お土産屋やレストランなどがひしめき合っている。

中央付近にあるセビリ(水飲み場)は日中は観光客でごった返すのだが、早朝は全然人がおらず静かだった。

バシチャルシァからトラムが走る通りを西へ少し進むとセルビア正教の教会(旧正教会)がある。

外観を見ただけでは「これ、教会?」と思ってしまうほど、街にマッチングしていて存在感が薄かったが、
窓にはイエス・キリストの像が描かれていたりするので、よ〜く見ると教会だというのがわかる。

旧正教会から少し西に歩くと、ユダヤ人博物館がある。

これはユダヤ人の教会(みたいなもの)のシナゴークを利用して作られた博物館。

ユダヤ人博物館からさらに西に少し行くと、ひと際立派な教会がある。

これはカトリック大聖堂。中に入ってみると、それはそれは絵に描いたような「ザ・教会」と言った感じの立派な教会だった

定かではないが、大聖堂の土台の部分には、ボスニアの内戦で傷ついたんぢゃないか?と思われる弾痕があったりする。

カトリック大聖堂の北側には「ガジ・スフレヴ・ベイ・ハマム」がある。イスラム式のハマムだそうだ。

街中には「PEKARA」という看板が書かれている店が結構ある。ボスニア語で「ベーカリー」のことだそうで、要はパン屋さん。さすがに欧米はパンの国だけあって、美味そうなパンが並んでいた。

ということで、ソーセージが中に入っているパンを一つ購入。若干パンのパサパサ感が否めなかったが、それなりに美味いパンだった。

カトリック大聖堂から南西へ少し行った所にある立派な建物が「セルビア正教会」。

こちらは落ち着いた色の外壁にも関わらず、ひと際存在感がある建物だった。

ここまで見てきた通り、この歩いて周れちゃう狭い領域に「イスラム教」「ユダヤ教」「キリスト教」そして「セルビア正教」に関連する建物が立ち並んでいることを考えると、この土地はいろいろな民族や宗教を持った人たちで構成されていることが分かる。バルカン半島は「世界の火薬庫」と言われていた所以がなんとなく感じられる点でもある。

セルビア正教会からバシチャルシァ方向に戻って、次に向ったのは、第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリア皇太子が暗殺された場所、「サラエボ事件現場」

この建物の前の交差点付近で暗殺された。ちなみにこの建物はこの事件に関する展示がしてある博物館となっていて、まだ開館前だったので、後で訪れることにする。

その事件現場の所にある「ラテン橋」もこの事件で有名となった橋。石造りで外観はとても美しい。

この橋は歩行者専用の橋で、現在はかなり近代的な橋になっていて、時代の経過をあまり感じられないが、有名なのにこじんまりしていてなかなか良い。

ここまで歩いてきたエリアは本当に近くにあって、歩いても全然疲れる範囲ではないので結構楽しめると思う。
もうちょっと広いエリアを巡りたいが、歩くのはかったるいのであれば、この周りをぐるっと回るように走っているトラムを利用するのが便利。トラムのほとんどは古い車体を使っていて、線路なんかも日本みたいにすごくしっかりした感じではないので「おいおい、これ本当に大丈夫か?」と思ってしまうが、とりあえず大丈夫。

路線によって色分けされていたりする親切さはないので、車両先頭の上の表示板の番号を見て行き先を確認した方がいい。バシチャルシァ周辺だけだったら「1・2・3・5」のトラムが走っているのでどれに乗っても大丈夫。空港付近までいくのであれば「3」番のトラムに乗ればよく、サラエボの街全体を一通りみたければ、これで終点まで行けば一通り見ることができる。とはいえ、車体の窓はあまり綺麗ではなく、広告が貼ってあったりするので、車内から街の写真を撮るのはなかなか難しいかもしれない。

さて、ここからは西の方へ向かって歩いて行こうと思う。

途中、おじちゃんが橋の欄干に古本を並べて売っていた。世界でいろいろな本の売り方を見てきたが、端の欄干に直接本を置いて売るなんて見たことが無く新鮮だった。

そんなちょっと珍しい光景をみながら川沿いを歩き、先ほど訪れたセルビア正教会前の広場まで歩く。

セルビア正教会の前にある広場では、地面のタイルを上手く利用して、おっちゃん達がでっかいチェスに興じていた。その戦いを見る他のおっちゃん達。なかなかのどかな風景でほのぼのする。

同じ敷地内では小さな青空市がやっていて、ここでは生鮮食品とかではなく、ハチミツや石鹸・ハーブ等、主に女性が喜びそうな品物を売っていた。

この広場の北西に隣接するのが「屋内市場」。

外観はすごく立派な建物。とても「市場」だとは思えない造りで、「宗教施設」や「役所の建物です」と言っても
納得してしまうような外観だった。

中に入ってみると市場独特のにおいがする。というのも置いてあるのが干し肉等の肉類とチーズ類なので、独特のにおいが漂っているのだ。外観だけではすごく広そうに見えたのだが、中はそれほど広くはないがアジアや中東等の市場と違ってそれなりに清潔感のある市場だった。

さて、街中の路面にはこんな感じの物がたまに見かけられる。これは「Sarajevo rose(サラエボのバラ)」と呼ばれていて、ボスニアの内戦の時に砲弾を受けてそれによって犠牲者が出た場所にこんな感じで、砲弾の跡のくぼみを赤い樹脂で埋めている。だから、街中でこのサラエボのバラを見かけたら「ここで犠牲者が出たんだ」ということが分かる。この写真は屋内市場と青空広場の間を走っている道路上にあったもの。

屋内市場の北側の道路を挟んだ所には「青空市場」がある。

青空市場と言えども、一応オープンなスペースで開催されているが、屋根も備えられていて常設の市場なんだというのが
わかる。そんな青空市場だが、この場所は歴史的に重要な場所なのだ。

一見するとごくごく普通にありがちな市場。特に生鮮食品で野菜なんかが充実していた。エリア外だが小道沿いには
洋服や雑貨を売る店も数件見られた。

青空市場の一番奥に不思議な壁がある。そして何やら名前らしきのが羅列している。

実はここ、ボスニアの内戦の時に砲撃を受け、市場に居た多くの人が亡くなった。あまりにも悲惨なこの出来事に対して、
さすがにしびれを切らしたNATO軍が「もうそんなことは止めろ!」と言って、セルビア側に空爆を開始。結果的に
ボスニアとセルビア側を停戦協定のテーブルにつかせ、ボスニア内戦が終結した。

なので、皮肉なことだが、この青空市場で犠牲になった人達のおかげで、結果的にたくさんの人が助かったのかもしれない。
そんな悲惨な運命をたどることとなった人達を忘れないためにも、この壁に彼らの名前が刻まれているのだ。

青空市場からトラムの走る通りを西にしばらく歩いた所に24時間消えない聖火がある。

サラエボは1984年に冬季オリンピックが開催された場所。ということで、この聖火はオリンピックの聖火かと思いきや、実際はドイツ侵略の時に亡くなった人達への敬意とボスニア内戦の犠牲者を弔うための聖火だそうだ。

トラムが走る大通りをさらに西に歩いていく。まだ時間が早いので街は静か。
サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都だが、東京のようにすごく混雑した感じが無くて過ごしやすい。

次の目的地はボスニアの内戦でなくなった子供達のための記念碑があるところ。聖火があるところからは少し歩かなければならないが、歩けない距離ではない。気づけばバシチャルシァからしたら結構な距離になっているが、トラムで行けばすぐの距離だ。

サラエボの旧市街は趣のある古い建物が多いのだが、西側に来ると新しい建物や大型ショッピングセンターなんかもあって近代的になってくる。
写真はBBIショッピングセンター。アルジャジーラなんかのテレビ局も入ってるみたいだが、
大型と言っても日本の地方にあるショッピングセンターぐらいの規模。イメージ的には日本の地方にあるイトーヨーカドーぐらいの規模。

このBBIショッピングセンターと道路を挟んだ反対側にボスニア内戦で亡くなった子供達の記念碑がある。「Memorial to Childern killed during the siege of sarajevo 1992-1995」と書かれてあり、英語表記しか無いところを見ると外人向けのアピールなのか?とも思ってしまう。

中央には噴水を備えるオブジェがある。

さて、ここで簡単にボスニア内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)について簡単におさらい。詳細が知りたい人はネットで検索してください。

もともとボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビアという共和国で成り立っており、たくさんの民族で構成されていた国だったが、ソ連が存在していた頃は「ソ連に侵略されるかもしれない」という危機感がいつもあって、民族の枠を超えてチトーというカリスマ指導者のもと団結していた。

しかしながら、ソ連の崩壊に伴ってその心配がなくなってくると、次第にそれぞれの民族意識が高まり、それぞれの民族で独立し始める。これがユーゴスラビア紛争。まずはスロベニアが独立し、マケドニア・クロアチアが独立した後、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。ところが、ボスニア・ヘルツェゴビナにはクロアチア人やムスリム(イスラム教徒)の他に、セルビア人も多く住んでいた。このセルビア人がボスニア・ヘルツェゴビナから分離・独立しようとして、隣のセルビアの力も加わって戦争が始まった。

サラエボはクロアチア人とムスリム達で構成され、周囲をセルビア人が包囲するという戦争の構図となった。サラエボは盆地状の地形で周りを山々に囲まれている。なのでサラエボは周囲の山々から砲撃を受けるという状況となり多くの犠牲者が生まれた。この戦いがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。

そんな悲惨な紛争により、罪の無い子供達も巻き込まれ犠牲者となった。これはそんな子供達の名前が刻まれた慰霊碑。

こんな感じで名前と生まれた年と亡くなった年が刻まれている。どれだけ多くの子供達が犠牲となったのか?というのが一目瞭然だ。

中には写真中央の年号のように1992年に生まれて、1992年に亡くなった子供もいる。生まれた年に戦争で亡くなってしまったのだ。

この紛争は1992年から1995年まで続いた。なので、ほとんどの子供達は1992年や1993年に亡くなっている。生まれた年はバラバラだが、亡くなった年はみな同じなのだ。

この場所にもサラエボのバラがあった。戦争終結から20年経ってしまっているので、当初はくぼみに赤い樹脂があったと思われるが現在は無くなってしまっている。こうやって戦争の記憶も少しずつ無くなってしまうんじゃないか?と心配になる。

サラエボにはこんな感じで内戦当時にも建っていたんだろうと思われる建物も結構ある。そんな建物をよくよく見てみると・・・

壁にはかなりの数の銃弾を受けたであろう跡が残っている。こんな数の銃弾を受けたら外になんか出られないだろうと思う。

そんな建物を見て、内戦当時の大変さを想像しながら次に向うのは、サラエボオリンピックスタジアム。

オリンピックスタジアムへ行くには、まず先ほど訪れた記念碑の場所から少し西に進む。
すると、南北方向に走る大きな通り(Alipašinaという通り)にぶつかるので、この通りを右に曲がって、北の方に進むとある。

地図を見ると「これ、歩いて行けるかなぁ~?」と心配していた。でも宿のおかみさんは「歩いて30分ぐらいだと思うわ」と言ってたので安心して出かけたが、30分では着かなかった。とは言っても歩いて行けない距離ではないので、「結構歩くかも」という覚悟の上で行けば全然苦にならないと思う。

途中、高架橋をくぐる場所があって、この高架橋の下では小さな市場が開かれていた。野菜なども置かれていたが、普通に洋服とか靴とか雑貨とか、エリアに決まりは無い感じでいろいろな店が並んでいた。

余談になるが、自分はここにあった公衆トイレを利用した。サラエボでは普通の店にはトイレはあまり無く、街の公衆トイレは有料。
大体1マルクぐらいと思われる。大きなショッピングセンターには普通に綺麗なトイレがあるので(無料)、
大きなショッピングセンターの前を通るのならば、そこで済ませておいた方がいいと思う。
一応ヨーロッパということもあって、街にある公衆トイレも結構綺麗。

市場からさらに北側に歩いて行くと、サラエボオリンピックのマークがある記念碑が見えてくる。ここが、オリンピックスタジアム。

実はここに来た目的はオリンピックに関する物ではなく「お墓」。
わざわざお墓を見に来るなんて悪趣味極まりないと思われてしまうかもしれないのだが、このお墓も内戦に関わる悲しい歴史がある。

ボスニアの内戦でサラエボの街はセルビア側に町を完全に包囲された状態となった。
内戦に巻き込まれた市民の遺体を埋葬するところが次第に無くなって行き、
最終的にこのオリンピックが行われた跡地に埋葬するしかなくなってしまったのだ。
しかも、日中は砲撃を受ける可能性が非常に高く危険なため、埋葬は夜か早朝に行われていたとのこと。

そんな理由で、この平和の祭典の象徴であるオリンピックスタジアムに、
たくさんのお墓が並んでいる。平和の祭典の象徴と内戦による犠牲者のお墓。
実に皮肉なことだと思う。

お墓の写真を撮るのは普段はほとんどやらないことなのだが、この風景は決して忘れてはならないと思って何枚か撮った。遠くに小さく見えるのが先ほどのオリンピック記念塔。そのたもとに並ぶ大量のお墓。
オリンピックが開けるほど平和だった世の中が
ほんの少しのことで簡単にバランスが崩れて戦地となる。

平和ボケしてしまった我々日本人にとって、平和は当たり前のことだと思いがちだが、
実は頑張って努力しないと平和でいることは本当は難しいことなのだ。
いろいろな考えや意見はあると思うが、アジア・太平洋戦争では日本は周辺各国に
戦争を仕掛けてきた。現在の教育では結果的に日本は負けた被害国のような教育が
されているが、我々は戦争を仕掛けていった民族で、我々の多くはその民族の子孫なのだ。
そんな民族である我々は、サラエボの歴史をお手本にして平和であり続ける努力を
惜しまないことを、常に肝に銘じておかなければならない。

と、自分は思う。(もちろんいろいろな意見があるのは当然だと思うので、いちいち掲示板とかで「それは違う!」とかツッコむのはご遠慮ください。あくまでも私個人の意見です)

このお墓の中央にはこんな立派な塔が建っている。

この塔にはやはり内戦で犠牲になったんだろうと思われる人々の名前が刻まれていた。
名前の横にはその人が生きていた期間の年号が書かれており、やはり無くなった年は
1992年とか1993年ばかりだった。

このすぐそばにはボスニアヘルツェゴビナの旗もあった。
この国旗はやはり平和の祭典である長野オリンピックうに間に合うように制定されたもの。

お墓のすぐ横にはサッカー場があって、サッカーの試合が行われていた。
その試合を見る現地の人々。こんな平和な風景がずっと続いて欲しいなぁ~と素直に
思った。

オリンピックスタジアムは現在はお墓だけではなく、大きな競技場や先ほどのサッカー場、そしてスケートリンクなんかもある。

スケートリンクの建物と併設するように、オリンピック博物館もある。建物前のオリンピック旗が目印。

しかし、自分が行った時は博物館は空いてなく、スケートリンクにいた係員に聞いたら
「today is not working day」と言われた。事前の情報とか建物の前に書いてあるworking dayを見る限り、やっていておかしくないハズなのだが・・・。
博物館の開館については事前情報通りにならない可能性があるので注意が必要。

突然話は変わるが、サラエボの街にはこんな感じでタクシースタンドが結構あって、大抵数台のタクシーが停まっていることが多い。バスやトラムだけでほとんど回れちゃうし、歩いても全然周れる街なのだが、
大人数なんかで移動する時は近くのタクシースタンドからタクシーに乗ってしまうのも
アリかもしれない。

オリンピックスタジアムから、来た道を戻って次に向うのはツイストタワー。
サラエボのメイン通り(通称スナイパー通り)に戻ってきたら、バシチャルシァとは
反対の西方向に進んでいくとある。

ツイストタワーに向う途中で、ちょっとオシャレなパン屋があったので、中を覗いてみたら、美味そうなパンが並んでいたのでハムとかがサンドされたパンを購入。
適度に噛み応えのあるパンはとても美味く、中のハムの塩気も適度で美味かった。

味が良いのが地元の人にも知られているのか、店の前に置いてあったテーブルで食べていたら、結構たくさんのお客さんが立ち寄って買っていった。

そんな寄り道をしつつ、ツイストタワーに到着。

このタワーはサラエボで一番高い建物で、新聞社の建物だそうだ。しかしながら最上階のカフェと展望台は一般人も入場可能。

それにしても、ツイストっぷりが実に美しい建物だ。

建物に入ると右手方向に受付がある。といっても展望台専門の受付ではなく、新聞社の受付。この受付に行くと、係りのね~ちゃんは何も言わなくても分かっていて、
無表情で私をエレベーターの方へ誘導。勝手にボタンを押して私をエレベータの中に入れ、「エレベーターが止まったら、カフェの横にあるところが入り口だから」と言って
エレベーターから去っていた。

あまりに淡々とした扱いに「何がおこったのか?」とあっけに取られてしまった。そんな状態で最上階に到着。カフェの横にゲートがあって入場料は1マルク。
あいにく2マルク硬貨しかなく、横にあるカフェで両替をお願いしたら冷たく「ダメ」と
言われた。ここに登るのなら、事前に1マルク硬貨を用意しておく必要あり。
ちなみに2人が一回で入れるように2マルク硬貨も使えるが、2人用の2マルク硬貨対応なので、当然の如く1マルクが戻ってくるような親切さはない。

自分は結局1人だったが、しょうがなく2マルク硬貨で入場した(強行突破も考えたが、
きっちり監視カメラが設置されていたために止めておいた)

最上階からの眺めはさすがにサラエボで最も高い建物だけあって、市街のほとんどは見渡せる。上から見てみると、
首都だけあって近代的な建物は並んでいるのだが、東京のようなビッシリさは感じられず、程よい空間が残っている
感じがある。

市街中心地のビルが立ち並ぶような所はそれほどビッシリしていないが、丘陵地域の特に住宅地なんかは、
さすがにビッシリ立ち並んでいるのがよく分かる。

こう見ると、サラエボの市街は周りを山で囲まれた盆地だってことがすごくよく分かる。この地形が
内戦の時はネックになってしまったことは否めない。

ツイストタワーからの眺めは素晴らしく、地元の人も良く知っているのか、自分が上がった時にも何組かの
人達がここに上がってきていて、カップルなんかも結構いた。ちょっとしたデートスポットなのだろうか?
とはいえ、家族連れもいたりして、老若男女楽しめる場所なのかもしれない。入場料も1マルクと安いし。

ツイストタワーからの眺めを堪能したら、すぐ近くにあるサラエボ中央駅に行ってみた。

ここは、鉄道の駅とバスターミナルが一緒にある場所で、自分は飛行機でサラエボ IN したが、鉄道やバスなんかで
サラエボ入りするバックパッカーなんかも結構多いらしく、ネット上ではここの情報なんかも結構あった。

事前情報等を読んでいて、さらに「サラエボ中央駅」という名前が付いているだけあって、相当混み合っているのかと
思いきや、駅舎には全然人がおらずびっくりした。鉄道が到着する時間ぐらいしか混み合わないんだろうか?

サラエボ中央駅と先ほどのツイストタワーはすぐ近くなので、駅前の広場からツイストタワーをはっきりと見ることが
できる。他に高い建物が無いだけあって、圧巻の存在感。

さて、最初の方でちょっと触れたトラムについて補足。

トラムに乗るには当然のごとく切符を買う必要があるが、切符は駅の前にキオスクがあればそこで買えるし、
トラムに乗る時に運転手から直接買うこともできる。運転手から買うと、たくさんの人が乗っているにも
かかわらず運転しながらお釣りを返したりするので「大丈夫か?」と思っちゃったりするがとりあえず大丈夫。

ちなみにキオスクで買った方が若干ではあるが安い。運転手から買うと1.8マルクだが、キオスクで買えば1.6マルク。
まあ、ほとんど差が無いと言っていいと思うが・・・。

ということで、閉館時間が迫ってきていたのでここで一旦サラエボ事件の博物館に向かうことに。サラエボ中央駅前から
トラムにて移動。

どのガイド本やサイトにも書いてあるので重複するが、トラムのチケットは買っただけではダメで、トラムに乗ったら
車内にある機械に通す必要がある。どこかのサイトで「違う向きに入れてしまい正しく打刻されていなかったチケットを
運悪く検札官に見つかってしまい(もちろん悪意はなかったのだが)、罰金を払わされた」と書いてあって、
「えっ!機械に入れる方向すらわかりにくいの?」と若干緊張していたが、実際のチケットを見たら機械に入れる方向なんか
一目瞭然で「何故その人は間違ったんだろう?」と不思議に思う程だった。

チケットを機械に通すと、通す前は裏側に何も書かれていないスペースに(写真左)乗った車両の車両番号が打刻されて
出てくる(写真右)。ガイド本には「たまに抜き打ちで検札官がチケットをチェックする」と書かれていたので、若干緊張して
乗っていたが、この旅で何回かトラムに乗ったが、その中では検札している人は見かけなかった。

あと、「車内の機械が壊れていることがよくあるので注意が必要」とも書いてあったが、旅の中では壊れた機械に
遭遇したのは一回だけだった。壊れていても車両には少なくとも2個以上の打刻機があるのでほとんど心配は
いらないと思う。

ということで結構がんばって歩いた道のりをトラムで楽々戻ってきた。

サラエボ事件の博物館の前はトラムの駅にもなっているので、博物館へはトラムを降りたらすぐ。サラエボ事件は
その後の世界史に大きな影響をもたらした事件なので、どれほどたくさんの資料が展示されているのか期待大で
入ってみた(入場料は4マルク;2015年5月現在)

期待して入ってみたら「あれっ?これだけ?」というぐらいこじんまりした博物館で、この写真の展示がほぼ全て。
完全に期待を裏切る少なさ。

とりあえず、展示内容はサラエボ事件に関する資料で、特に皇太子が当日どんな行動をしたのか?とか犯人の背景等
の展示がされているぐらい。

しょうがないので、サラエボ事件に関するおさらいを少し。詳しく知りたい人はネットで検索してください。

当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに併合されていたが、多くのボスニア住民はこれに反発していて、
セルビアや他の国への統合を望んでいたという背景がある。

そんな中、オーストリアの皇太子がボスニアを訪問した際に銃で暗殺された。これがきっかけとなり、オーストリアは
セルビアに対して宣戦布告して第一次世界大戦が始まることとなる。

というのが、すごく簡単なサラエボ事件の概要。第一次世界大戦に突入したぐらいまででなんとなく終わってしまうが、
考えようによってはこの事件は現代にもつながる「負の歴史」の始まりとも言える。

というのも、この事件をきっかけにした第一次世界大戦にドイツは関わりたくもなかったのに参加せざるを得なかった。
その結果、ドイツは負けて戦勝国から払えるわけがない賠償金を負わされることとなり、世界恐慌も追い討ちをかけて
ドイツ経済は最悪の状態に陥る。そんな中出てきたのがヒトラー。彼は見事な話術で国民の支持を味方に付け、
ユダヤ人を「悪の根元」とすることで、国民の支持をさらに強大なものにする。
その結果、ナチスの独裁が始まり、第二次世界大戦が始まることとなる。

また「悪の根元」と決めつけたユダヤ人を大量に虐殺したことにより、その後世界中からのユダヤ人に対する同情が
起こり、その結果「イスラエル」という国家が成立することとなった。それだけ見れば「めでたし、めでたし」と
思ってしまうが、イスラエルができたことにより、その場を追われた大量のパレスチナ難民が発生し、周辺のアラブ諸国と
イスラエルとの紛争が起こることになって、現在もそれが続いてしまっている。

歴史に「たら・れば」は無いが、もしこのサラエボ事件が起きていなければ・・・と考えると現代の世界情勢は
全然違っていたかもしれない。それほど世界史上重要な事件なのだ。

サラエボ事件の博物館が予想外に早く見終わってしまったため、微妙に時間が余ってしまった。ということで、ここから急いで「トンネル」を見に行くことにする。

トンネルは空港近くにあるので、まず今いるバシチャルシァから3番のトラムに乗って終点のイリジャまで行く。バシチャルシァから3番のトラムで終点まで行くとサラエボの街を一通り見ることができて面白い。

トラム終点のイリジャ駅で降りると、目の前がバスターミナル。ここからバスに乗り換えてトンネルに向うことになる。

バスターミナルはいろんな場所へ向うバスがあるため、結構たくさんの人がバスを待っていたが、待機しているバスはそんなに多くなかった。

バスターミナルには明確な路線図とか時刻表とかもなく、どこに目的のバスが停まるのか?というのが全然分からなかったが、そんなに頻繁にバスが来るわけではないので、まあ、バスが来たら路線番号とかを確認すれば全然問題ないレベル。ちなみにトンネルへ行くには「32番」のバスに乗ればよい。

自分は「どうせ海外のことだから、相当待たないと32番のバスは来ないんだろう。もう閉館時間まであまり時間がないから、最悪の場合間に合わないな。間に合わなければまた明日来ればいいや。どうせトラムも安いし」とか若干諦め気味で余裕をかましていたら、予想に反して結構すぐにバスが来た。

トラムと同じくバスもチケットはドライバーから買う。言い忘れたが、トラムもバスもどこまで乗ったって料金は均一。「なら長く乗った方が得ぢゃん!」とか思うが、どうせ一回の料金は100円ぐらいなので、あまり気にならない。バスの料金はドライバーから買って1.6マルクだった(2015年5月現在)

バスはだいたいこんな感じのルートを通って終点まで行く。正確にはもうちょっと違う道も通っていたような気がするが、トンネルに行くには終点で降りればいいので細かい道はあまり気にしないでも大丈夫。

終点といっても大きなバスターミナル的なものがあるわけでも無く、ただちょっとバスが転回できるぐらいの広さの場所があるだけって感じ。もちろんバスの中には案内表示や車内放送があるわけではないので、バスが停まるたびに「ここ終点かなぁ?」と不安になる。

しかしながら、32番のバスは終点に着くとしばらく停車したままとなり、そのままそのバスが折り返し帰りのバスになるので、バス停に到着してしばらく(5分か10分ぐらい)停車したままだったらそこが終点。終点で全員が降りるわけではなく、途中から乗った人が始発のイリジャまで行きたい場合はそのバスが折り返し帰りのバスになるために、彼らは乗ったままでいるので注意が必要。

バスを降りるとのどかな風景が広がっていて、羊なんかが放牧されていた。

バス停からトンネルまでは少し歩かなくてはならないが、道は単純なので迷う心配は全然ない。

バス停の横には小さな川(本当に小さくドブ川ぐらいの大きさ)が流れているのでその川を渡ったら左に曲がる。あとは道沿いに歩くだけ。

道は住宅街の中を通る道で途中舗装されていない(というか舗装工事中)の部分もあった。

トンネルに向う途中の住宅の壁にもこんな感じで銃弾の跡がいまだに残っていたりする。

バス停から5~10分ぐらい歩くとトンネルに到着。といっても普通の民家からトンネルを掘ったので見た目は普通の民家。でもここはサラエボの有名な観光地なので、他の民家とあまり変わりは無くても、何となく空気で「ここだな」ってのが分かる。

ちなみにこのトンネルの建物の横はスーベニアショップになっているのだが、そちらの
方がよっぽど観光地っぽかったので、自分は最初間違えてそちらに入ろうとしてしまった。店の人に「ここはスーベニアショップよ。トンネルのエントランスはあっち」と、意外にも親切に教えてくれた。

ここがトンネル博物館のエントランス。時間によっては観光客が大量に並んでいることもある。(自分は入場した時は誰もいなかったが、帰る時には観光バスで来た大量のツアー客が並んでいた)

2015年5月現在、入場料は10マルクという結構いい値段を取られる。

さて、入ってみると内戦当時のトンネルの様子や戦闘状況、どんな風にトンネルが使われていて、どんなものが運ばれていたのか?とかをビデオで紹介する場所もあった。このビデオで紹介する場所は3~4ヶ所あったので、それぞれ違う内容かと思ったが、内容は全て同じだった。(15分ぐらいのビデオがリピートで流れているので、どこから見ても大丈夫)

さて、実際にトンネルに入ってみる。入り口はこんな感じで結構狭い。

トンネル自体も結構狭く、高さは1.5mぐらいしかないので、ず~っと中腰で歩かなければならない。内戦当時はこんな感じでトンネルが800m続いていたが、現在は閉鎖されほんの25mしか歩くことができない。実際に歩くと本当にすぐに終わってしまう。

先ほどから「トンネル・トンネル」と言っているが、この「トンネル」とは何か?を簡単に説明。

ボスニアの内戦の際、この写真のようにサラエボの街はセルビア側によって包囲されていた。白い部分はボスニア側。ピンク色の部分はセルビア側。左下の白い部分もボスニア側なのだが、途中にある細い部分は空港で、ここは国連が管理していた。

このようにボスニア側が完全に包囲され、物資の補給も厳しい状況になった。そこで空港下の部分にトンネルを掘り、左下の白い部分のボスニア側の領地からサラエボ中心の包囲された範囲に食料や武器・弾薬・薬品等を運び入れたり、逆に人がここから出たりしていた。ボスニア側にとって命綱のような役割を果たしていた。

サラエボ市街が盆地状の地形だったため、こんな感じでセルビア側に包囲される構図となってしまったのだ。

トンネルの出入り口は民家の所に作られていたので、現在は住宅街に突然観光地が現れることになっている。

このトンネルの見どころは本当に25メートルだけ歩けるトンネルのみで他に何も無い。なので観光自体は一瞬で終わってしまう。

サラエボでも有名な観光場所で、さらに市街中心部より離れている為、通常はツアーで来るのが一般的。ということで、駐車場には観光バスが何台も停まっていた。欧米人だけではなく、中国人ツアー客なんかも多かった。

市街にはシティーツアーを行っている旅行会社がたくさんあって、手ごろな値段でツアーに参加できる。しかしながら、今回自分が行った方法のように、トラムとバスを乗り継いで行っても大して大変ではないので、のんびりと安く行きたい人なんかにはオススメだと思う。

市街へ戻るには来た時と全く逆の方法で帰れば良く、先ほどのバス終点のターミナルで待っていれば、バスが必ず来る。時刻表が無いので「本当に来るのか?」と多少ドキドキはするが、心配は無用だ。自分の時は行きのバスも帰りのバスもドライバーが同じで、途中他の32番バスとすれ違うこともなかったので、この路線は1台のバスがず~っとグルグル巡回しているんだと思われる。なので最長待ったとしても一往復分の時間ぐらいなので、30分ぐらいおきには来るんだと思われる。

そんなこんなで、バシチャルシァまで戻ってきた。バシチャルシァの一番東側には「市庁舎」がある。この建物は内戦で全焼したため現在の建物は建て直したものなのだが、色がとても綺麗で素敵。

サラエボ事件で暗殺されたオーストリアの皇太子夫妻はここを訪れた帰りに暗殺された。

朝はほとんど人がいなかったバシチャルシァのセビリ(水飲み場)付近は、夕方ぐらいには「どこにそんな観光客がいたの?」って思っちゃうぐらいの数の観光客であふれていた。

バシチャルシァにはお土産屋がひしめきあっているので、ちょっと覗いてみた。

大きな通りにもお土産屋やレストランが並んでいるのだが、ちょっと入ったこんな小道の両サイドにもギッシリをお土産屋が並ぶ。

これはサラエボの有名なお土産。銃弾で作ったボールペン。内戦で大量に出た薬莢(やっきょう)や弾を利用してボールペンとして加工して売っているのだ。お土産に一つ買っていきたかったが、今回の旅はバックパック一つで回っており、全て機内持込の手荷物として乗る予定だったので、「空港で大丈夫かなぁ~?」と心配になり購入しなかった。

人を殺すために作られたものをお土産として持って帰るというのはいかがなものか?とも思ったが、こうゆう物がお土産として売られるようになったということは平和になった証なのかもしれない。

お腹も空いてきたので夕飯を食べることに。地球の歩き方にも載っていた「スレボルナ・シュコリカ (Srebrna Školjka)」というお店に行ってみることに。朝に訪れた屋内市場の2階にあるレストラン。夕飯時だというのにお客は一人もおらず若干不安になる。

注文したのは、こちらではごくごく一般的な郷土料理のチェヴァプチチ。小さく切った肉を焼いたもの。これをピタで挟んで食べたりする。一緒に生のたまねぎが入っていた。チェヴァプチチは「小さな肉のみのハンバーグ」と言った感じで肉の味が濃く、パンと一緒に食べると食べ応え十分だった。一緒にヨーグルトドリンクも注文したが、甘くないヨーグルトドリンクとチェヴァプチチの相性はとても良かった。

ついでにトルコ(式)コーヒーも注文してみた。トルココーヒーは粉を濾すことなくカップに一緒に注ぎ、しばらく待った上澄みだけを飲む方式。トルココーヒーを入れる道具はお土産屋にもたくさん並んでいた。

飲んでみるとやはり少しコーヒーの粉も一緒に飲むことになってしまい個人的には普通のコーヒーの方が飲みやすく感じた。貧乏性丸出しで最後の方まで粘って飲むと、粉がたくさん口の中に入ってしまうので注意が必要。

そんなこんなでサラエボ観光の1日目が終了。予想に反して見たいところはすでにほとんど見れてしまった。明日はどこに行こうかなぁ~?なんて考えつつ本日は就寝。

これからの中欧旅
Day1・2 サラエボって本当はどんなとこなんだろう
Day3 国を二つに分ける境界って何?
Day4 自作 vs 本場のサバサンド 勝つのはどっち?!inトルコ
Day5・6 パムッカレは日帰りで十分だったぁ?
Day7 イスラエルの「黄金のドーム」がこんなところに!?
Day8 世界で一番美味いケバブはベルリンにあったぁ!?
Day9 あの騒乱があったウクライナの独立広場は今!?
Day10 ローカルバスで世界遺産へ行こう!
Day11 ヴィエリチカ岩塩抗ってどうやって行くの?
Day12 アウシュビッツで思うドイツ人と日本人の違いとは…?
Day13 最大の見どころワルシャワ旧市街は工事中だったぁ?

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