【ポーランド旅行記】Day12 アウシュビッツで思うドイツ人と日本人の違いとは…?

本日はクラクフの街からアウシュビッツに向かう。アウシュビッツ行のバスはクラクフ中央駅東側にあるバスターミナルから出発するので、まずはそこに向かう。

バスターミナルの外観はこんな感じ。すんごい大きなバスターミナルではないが、それなりに施設も整った感じのターミナルだった。

ターミナルの待合室はこんな感じ。結構綺麗。余計な情報だが、クラクフ中央駅やこのバスターミナルにあるトイレは有料で2ズオチぐらい払う必要がある。さすがにお金を払うだけあって、公衆と言えどもトイレは綺麗だった。

待合室でバスを待っていたら、「日本人か? 10時からの中谷のガイドか? バスは確保したのか?」とか聞いてくる、客を探しているタクシー運転手らしき人物に話しかけられた。まあ、日本人がアウシュビッツに行く手段はここからバスに乗るってのが一般化してしまっているので、ちょっとカモられる感じはあるかもしれない。

値段は聞かなかったが、自分は一人だったので当然選択肢には入らないが、大人数だったら人数割りすれば安いのかも?と思いつつ。値段は確認した方がいいですよ。

あと、その怪しげなドライバー曰く、この待合室はスリが結構いるらしいので注意。

待合室にある電光掲示板の時刻表。こちらは大きなバスの時刻表。アウシュビッツ行の大きなバスはそれほど本数は多くはない。

一方、こちらはミニバスの時刻表。アウシュビッツに行くには、この写真の一番上に書かれている「OSWIECIM(オシフィエンチム)」行きに乗れば良い。ミニバスは結構な本数が走っている模様。

自分は前日にここでチケットを買っておいた。待合室には有人のチケット売り場があって、そこでチケットを買う。チケット売り場のおばちゃんに時間と行き先(アウシュビッツと言えば通じる)を告げれば問題なくチケットは買える。

駅周辺やバスターミナル周辺など、人が集まる所にはこんな感じのパンを売る屋台が結構あった。パンというより「プレッツェル」なのかもしれないが、一般的にドイツとかで見かけるプレッツェルよりはパンに近い。今回買ったものはそれほど塩っぽくなくて美味しかったが、物によっては塩がたっぷり付いたものもあるそうだ。

バスが停まるターミナル側の柱にあったアウシュビッツ行バスの時刻表。これは大きなバスの方の時刻表。バスターミナルは2階建て構造になっていて、大きなバスは2階から出発する。ミニバスは1階から出発するようになっていて、時刻表にはバスが出発するターミナルもちゃんと表示されているので、どこから出発するのかわかりやすくてありがたい。

こちらは今回乗った大きなバス。最終的に席はほぼ満席状態だったので、時期によるかもしれないが、バスのチケットは早めにゲットしておいた方がいいかもしれない。直前だと乗れないかも。ちなみにチケットは前日でも入手可能。バスの値段は忘れてしまったが、ミニバスの方がちょっと安いらしい。とはいえ、ほぼ「誤差範囲」と言っても良いほどの違いしかなかった気がする。

クラクフからアウシュビッツまではバスで1時間半ぐらいかかる。クラクフの中心街の方は若干道が混雑しているものの、中心街から離れてしまえば道はほとんど混んでないので、到着時間はほぼ正確と考えて良いと思う。

バスはアウシュビッツ第一強制収容所の方に停まる。ちなみにアウシュビッツまではクラクフ中央駅から電車でも行けるが、降車駅となるオシフィエンチムの駅から第一強制収容所まではちょっと離れているので、歩くかタクシーを拾う必要がある。

アウシュビッツの強制収容所は第一・第二・第三とあって、今回見学したのは第一と第二。一般的にはここを見学する。位置関係はこんな感じ。第一強制収容所がいっぱいになり収容しきれなくなったので、第二強制収容所を建設したため、第二強制収容所の方は広大な土地になっている。

第一収容所と第二収容所は車で5分くらいの距離にある。

クラクフからのバスは、第一強制収容所入り口前の駐車場付近に停車する。ここは、第一強制収容所と第二収容所を往復するシャトルバスの停留所にもなっているし、クラクフに戻るバスの停留所でもある。

さて、アウシュビッツの見学においては、地球の歩き方にも載っている日本人公認ガイドの中谷氏に事前にメールでコンタクトを取って10時からの案内となった。

アウシュビッツは今回の旅の中でもメインと言える場所だったので、エアチケットを取るのと同時ぐらいに中谷氏にメールを送付。エアチケットを取るぐらいなので、4ヶ月ぐらい前なのだが、さすがに中谷氏のスケジュールも決まっておらず、結局1ヶ月ぐらい前にスケジュールが決まるそうだ。当然彼の都合の方が優先のため、自分が行きたい日にガイドをしてもらえるか?はわからないので、2~3日の余裕を取ってその中でいつガイドしていただけるか?というのを確認する形の方が良いと思う。自分は都合上クラクフに2日間しか時間が取れなかったので、その2日間のうちどちらかをという感じでお願いしたところ、運良くガイドしていただける日を取っていただけた。

中谷氏は直接「ガイド料」を取るわけではないのに、かなり親切な対応で、ガイド可能な日の連絡と共にクラクフからアウシュビッツまでの交通手段を記載したWordのファイルが添付されていた。そのファイルを読むと、お願いすればタクシーの手配までしていただけるとも書かれていた。大人数で行く場合なんかは利用しても良いと思うが、ほぼ無料でそこまでしていただくのもいかがなものか?とも思う。

中谷氏とは第一強制収容所の入り口前で落ち合う。普段は5人ぐらいの人数をガイドするようなのだが、さすがにゴールデンウィーク中ということもあって申し込みが殺到し、この日は20人ぐらいの人数だった。

アウシュビッツの料金のシステムが変わったようで、以前は決まった金額を人数割りして支払うようだったのだが、現在は一人40ズオチ(もしくはユーロでも支払えて、その場合は10ユーロ)だった。ちなみにこのお金はまるまる中谷氏のポケットに入るわけではなく、基本的にアウシュビッツの入場料だ。

電車の遅れで電車で来た人達が時間に間に合わず、 結局10時からのガイドは少し遅れて始まる。
ガイドはちゃんとイヤホンが配られるので、中谷氏の説明を聞き逃すような心配はない。

今回のガイドは、まず第一強制収容所のガイドから始まり、その後第二強制収容所(ビルケナウ)のガイドをしていただくスケジュールとなった。

第一強制収容所でまず見るのが、この有名な「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」の標語。この中の「B」の文字が反転しているのは、収容者のせめてもの抵抗だったという話はあまりにも有名。「働けば自由になる」と書かれていたが、実際には働いても自由にはなれず、実際には10人に1人も生還できなかった。

この標語の写真は、アウシュビッツを語る上でどのサイトにも載っていると思うが、多分どの写真においてもこの角度で撮ったものだと思われる。何故なら逆から撮ると・・・

こんな感じで後ろにあるポプラの木とおもっきしかぶってしまい、なんだかよくわからない写真となってしまう。

収容所敷地内には、レンガ造りの建物が規則正しく並んでいる。この建物にたくさんのユダヤ人が押し込められていた。

現在はこれらの建物の一部に、アウシュビッツに関する資料が展示されている。

通りを挟んだ両側に収容所棟が並んでいる。建物は一部再建されている物もあるが、基本的には当時と変わっていない。

通りの両側にはポプラの木が植えてあったりするのだが、このように一見すると劣悪な環境ではないように見せかけるようにするのも、ドイツ人の得意とするところだったそうだ。

アウシュビッツにはヨーロッパ中の各地から、ユダヤ人が連れて来られたことを示す地図で、えらく遠くの方から連れて来られた人たちもいるのがよく分かる。

アウシュビッツに連れて来られた人たちの内訳。

アウシュビッツには130万人もの人たちが連れて来られた。そのうち110万人がユダヤ人、14~5万人のポーランド人、2.3万人のロマ人(差別用語になってしまうが、いわゆる「ジブシー」と呼ばれている人々)、1.5万人のソビエト戦争捕虜、そして2.5万人の犯罪者。このうち110万人が殺害されて、そのうちの約90%がユダヤ人だったそうだ。

しかし、いわゆる「ユダヤ人」というのは、宗教的なつながりで構成されている人々のことで、基本的には「ユダヤ教を信仰している」もしくは「ユダヤ人の母親から生まれた子供」という定義である。したがって、身体的や外観的に共通した人々ではない。カナンの地(現在のイスラエルがある場所)の出身で外観はいわゆる「アラブ人」という人もたくさんいるし、いわゆるヨーロッパ人と言われる白人・ゲルマン人等のユダヤ人も多くいる。そうなると、「ユダヤ人」というのは外観で判断することは難しいのだ。

このユダヤ人という定義については、しっかりと理解しておく必要があって、一緒にツアーを回っていた他の日本人カップルは「ユダヤ人」という民族がいると勘違いしているなぁ~と思われる質問を中谷氏にたくさんしている場面が見られた。そのような民族がいると考えてしまうと、アウシュビッツの現実を理解しにくかったりするので注意が必要。

この写真に写っているのが、アウシュビッツでの唯一の日本人公認ガイドの中谷氏。

地球の歩き方に載るぐらいなのですごいなぁ~と思うが、もともとは日本の会社で営業マンをしていたそうだ。

これはあくまでも自分の感じ方なので、全ての人がそう感じるわけではないと思うが、彼のガイドは、それぞれの展示物についてはすごく短めで淡々と解説してくれるし、同じ場所の解説を日本人相手にしょっちゅうやっていたら、やはりそうなるのは自然なことと思われる。しかし、彼が本当に我々に伝えたいのは、それぞれの展示物に対する説明ではなく、強制収容所ができた頃のドイツ・ポーランド、その他ヨーロッパ諸国や世界各国に至るまでの状況で、「どうしてそうなったのか? そうなった背景にはどんなことがあったのか?」ということであって、それは現在にもつながらないのか?はたまた、現在でも同じようなことが起こりえないのか?ということを、ガイドを聞いている我々各人が考えてみる事を促したいのではないか?と感じた。

単にアウシュビッツは「悲しい出来事だったよね」という、遠い異国で起こった他人事として捉えるのではなく、「いつでも自分の身の回りで自然に起こりえることなんだ」ということが、アウシュビッツの成り立ち等を学ぶことでわかってくる。常にそういった危険な状況と隣合わせなんだということを、各人が考え直すことが必要と諭していると感じた。

このように、アウシュビッツに連れて来られた人達の写真が、元収容所の建物内で展示されている。

当時の状況を写した写真が並ぶ。

ここで、大事なことは、これらの写真は「収容していた側」要はドイツ軍側が撮った写真であって、「収容されていた側」ユダヤ人側が撮影した写真ではないということ。もちろん写真は合成とかしなければ嘘をつくことは無いが、「誰が撮影したのか?」ということで、その内容や伝わってくることは大きく異なる。写真を見る時にはその事を常に念頭に置いてみなければならない。

この写真は果たして本当に酷かったアウシュビッツの状況を忠実に映し出しているのか? 実際に収容されていた側の人間が撮影した写真はほとんど残っておらず、事故的もしくは奇跡的に残った物がわずかにあるだけだと言う。

このような貨物列車にぎゅうぎゅうにユダヤ人等が押し込められて、ここに連れて来られた。

当初、連れて来られた人は労働者として強制労働に従事していたが、そのうちあふれんばかりのユダヤ人が連れて来られるようになると、収容しきれなくなり、本当に元気で体力がありそうな者以外は、収容されること無くガス室に送られて殺害された。

これは、そのガス室を示した模型。実際に使われたガス室はこの後見ることになる。

ガス室での殺害に使われた薬品「チクロンB」の空き缶の山。チクロンB自体はもともと殺虫剤として開発された薬品で、青酸化合物。ペレット状の吸着剤に青酸化合物と安定剤を染み込ませたもので、この空き缶に詰めて長期保管にも耐えられるように作られた。青酸ガスは毒ガス兵器として使われることも考えられたが、軽くて拡散しやすいために、早く効力を失ってしまうので不適切だったのだが、密室空間で使用される殺虫剤としては有効だということになった。そこで、穀物に付いたシラミ等の対策の為に、密室でそれらを燻煙殺菌する為に用いられたが、ドイツ軍は穀物の代わりに人間を燻煙した。

これを作っていた会社は現在も存在する。これは使われたチクロンBのほんの一部だと思われるが、それでもこれだけの空き缶が存在するということは、我々の想像をはるかに超える人が殺されたと思われる。

ここに連れて来られた収容者が身につけていた物等は没収された。それらが展示されている。これは大量のメガネ。

義足等の数々。義足等をつけている物は労働には向かないということになって、ほとんどの人はすぐにガス室送りとなった。

新しい生活の為に持ってきた食器等の数々。まさか来た途端に殺されるなんて当然思っていなかった人々は生活用品や財産を持ってきたが没収されてしまったのだ。

大量のカバン。後で返すということで、カバンに名前を書かせたものの、実際にカバンが返された人なんてほとんどおらず、このように残っている。いきなり殺されるなんて思わせないカモフラージュはこれ以外にもいろいろあったらしい。

そして大量に残された靴。どれだけたくさんの人が亡くなったのか?というのは一目瞭然だ。

アウシュビッツに連れて来られた人には、それぞれこのような印(しるし)が付けられた。これによって、彼らがどうして連れて来られたのか?ということが一目で分かるようにしていた。例えば「ユダヤ人」だとか「同性愛者」とか「ロマ人(いわゆるジブシー)」とか「犯罪者」とか。

彼らはこのような囚人服を着せられていて、この囚人服に先ほどの印(しるし)が付けられた。

収容所内の壁には収容された人達の写真があった。当然これらの人はほんの一握りにすぎない。この写真には名前と入所した日付、そして亡くなった日が記載されている。その日付をよく見ると、長くて数ヶ月、短ければ数日で処刑されてしまうという運命だったことに言葉を失う。

全ては男性のように見えるが、入所した途端に伝染病の予防ということで頭を剃られたのでみんな坊主頭になっている。もちろん女性も同様の扱いだった。

こんな写真が廊下にずら〜っと並んでいる。 この光景を見てどのように感じるかは、その人次第だ。

彼らには基本的に何の罪もなく、ただユダヤ人というだけだ。

これは銃殺刑を行う場所。銃で撃つ為に、壁が二重になっている。

ここでどれだけの人が殺されたかは想像もつかない。

これは絞首台。この絞首台に向かって右側に家があり、ここの所長であったヘスとその家族が住んでいた。アウシュビッツで大量の人々が亡くなっているというのに、そのすぐ横で彼らは平和に暮らしていた。

彼は戦後捕らえられ、裁判で死刑を宣告される。そして、このアウシュビッツの絞首台にて絞首刑となった。

自分は大量の人々を殺す指令を出していたにも関わらず、一方ではそのすぐ横で平和に暮らしていたのは、彼が「自分は命令に従って行動しているだけだ」という心理が働いていることが大きい。この感覚はアウシュビッツの事実を理解するにはとても重要なことで、何故あれだけ頭のいいドイツ人がこれほど残酷なことを簡単に黙認したのか?という答えの一つであるかもしれない。

ドイツ人は最初にこのような収容所を作ってユダヤ人を連行してきた頃は、当然彼らの手で様々な事をしてきた。しかしながら収容されるユダヤ人が大量になってくると、彼らユダヤ人同士の中で上下関係ができるように仕向け、実際の監視や刑罰を与えたりする実行的な行為をユダヤ人に行わせた。巧妙にこのようなシステムを作ったのが、ドイツ人の頭の良いところで、実際に悲惨な行為に手をくだすのをユダヤ人に任せ、自分たちは実際に手をくださない。そうなると、道徳的に「こんなことをしてていいのか?」と省みる機会もなくなり、あれだけ悲惨な結果を導くことに何ら抵抗も無くなっていくのだ。

アウシュビッツの所長であったヘス自身もそのような気持ちだったと思われるし、実際に彼の手記には「自分は大量殺人機械の一部だった」と述べている。そもそも「自分が悪人だ」という認識は薄かったのだ。

ヘスだけではなく、自分がアウシュビッツを見学する前日にもドイツで実際にアウシュビッツで監視員等の仕事で働いていた90過ぎの男性の裁判が行われていた。彼は無罪を主張しており、その理由は「上からの命令に従っていただけだ」という内容だ。やはり皆同じ気持ちでいるんだと思われる。

では、ドイツ人は異常な心理の持ち主なのか?

アウシュビッツの表面だけを見れば、簡単に「ドイツ人=悪人」という構図になってしまうかもしれない。しかしよく考えてみると、このような心理は同じような状況に置かれた時には自分にも十分に起こりえることではないだろうか?

もっとも身近なシチュエーションで考えてみれば、自分が勤めている会社において、その方針や行為に対して「どうだろう?」と疑問を感じたとしても、上司からの命令であった場合に、簡単に「それはどうなんでしょう?」と言えるだろうか?しかも、周りの人間もその命令に従って行動するようになれば、自分だって「命令されているから」という心理のもとに行動してしまうことはないだろうか?

さらに自分が中間管理職だったとして、上から命令された事を自分の部下に命令することだってあるだろう。仮にその内容が社会倫理・道徳に反する内容だったとしても「自分は命令に従っているだけだから」という考えに陥らないだろうか?

当然、そのような行為が会社全体に広がってしまえば、いつの間にか誰もブレーキをかけることなく突っ走って、結果的に取り返しのつかない、社会的に完全に信用を失い、最悪倒産してしまうような結果に陥るといったことは、現代の日本でも普通にある話だ。

こう考えると、アウシュビッツで起こった悲劇は、ごくごく簡単に起こりえてしまうという事が理解できないだろうか? もちろん、だからと言って「ドイツ人は悪くなかった」と結論付けるつもりは全くない。ただ、人間というのは集団心理の中でこのようなことを簡単にやってしまう危険性があるというのは、常に心のどこかに持っておかなければ、同じ過ちを繰り返してしまう。

いろいろな考えはあると思うが、我々日本人だってかつて中国や東南アジアの国々を侵略していった歴史があることは、似たような心理にあるのではないか? そして我々はそのような非道徳的な事をする民族の子孫で、彼らのDNAを受け継いでいるということを忘れてはならないと思う。(あくまでも私個人の考えです。なのでいちいち掲示板とかで「それは違う!」とかツッコまないでください)

さて、先ほどの絞首台の横にはガス室がある。これはそのガス室内部。

壁の端の方にはシャワーの管のようなものがあって、ここに囚人を入れる時には「感染症等の予防のために、シャワーを浴びさせるためだ」と言った。そして、このシャワー管から実際に水が出ることはなく、殺人ガスが投入されたのだ。

天井にはこのような四角い穴が開いていて、ここから、先ほどの「チクロンB」が投入された。

これは先ほどのガス室のすぐ横にある釜で、ここで死体を焼いた。

ドイツ人はチクロンBを投入するだけで、中にいた人が確実に死んだかどうかも確認せず、死体を焼く作業はユダヤ人が行った。実際にやりたくない嫌な作業は全てユダヤ人にやらせたのだ。一方そのような作業をするユダヤ人だって、生き延びるためには仕方がなかった。

実際の中谷氏のガイドによって、アウシュビッツ(第一強制収容所)内はこんな感じのルートで内部を見学した。意外とそんなに広大な敷地ではないなぁ~というのが自分の感想。

第一強制収容所の見学はここで終わり。中谷氏のガイドがもう十分だという人は、ここで終わりにしてもよかった。数人の人がここで中谷氏のガイドから離れた。

その他の人は中谷氏と共に、ここからシャトルバスに乗って第二強制収容所(ビルケナウ)へと移動する。第一強制収容所前の駐車場からシャトルバスに乗る。ちなみに、クラクフ行きのバスは同じ場所から出る。(これはシャトルバスの写真)

第一強制収容所から第二強制収容所(ビルケナウ)は、シャトルバスでほんの数分の距離だ。

シャトルバスを降りると、列車の引き込み線が奥の方まで続いているのが印象的。当時ユダヤ人は貨物列車に詰め込まれて、この場所に連れて来られた。

ビルケナウは第一強制収容所に比べて広大な土地だった。それもそのはず、ここは第一強制収容所がいっぱいになり、収容しきれなくなったので新たに作られた収容所なのだ。敷地面積は実に東京ドーム37個分にも及ぶ。

中谷氏のガイドではまず引き込み線に沿って一番奥のガス室跡に行き、その後実際の収容所内部を見学するという、わりとあっさりしたコースだった。

引き込み線には一台の貨車があった。これは実際にユダヤ人を運ぶのに使用された貨車。彼らはこのような貨車にギュウギュウに詰め込まれここまで連れて来られた。すでに貨車の中ですら過酷な状況であったため、ここまで来る間に命を落としてしまう人すらいたそうだ。

敷地の一番奥の方に壊れた建物がある。これは大量の人を殺したガス室の跡。

第一強制収容所にあったガス室に比べて、第二強制収容所のガス室跡は結構大きかった。このガス室はだいぶ崩れた状態になっている。というのも、ドイツ軍はいよいよ敗戦色が濃くなってくると、「これが見つかってはマズい」と思ってあわてて爆破した。ところが、あまりにも慌てていたため、こんな感じで中途半端な状態になってしまったのだ。

そしてビルケナウの敷地内のほとんどはこのような収容所の建物が占めていた。次にこの建物の中に入ってみる。

実際に収容所の建物に入ってみると、とても人が住むような場所ではなく、ただの物置き場?と思われるような感じだった。しかも当時はこんな場所にユダヤ人がギュウギュウに詰め込まれていたそうだ。一番下の段は床すらなく、直接土の上に寝るような感じだった。当然衛生環境も悪く、それが原因で亡くなる人も多かった。

ところどころに見えるレンガ造りの煙突のようなもの。ここにはたくさんの収容所が建っていた。しかしながら戦後の復興のために、収容所として使われていた木材は使われたので、ビルケナウの敷地内に残っている収容所は少ない。ほとんどがこのような「跡」となっている。

収容所の建物の一部にはこのようなたくさんの穴が開いたものが設置されているものがある。これはトイレ。このようにプライベートな空間は全くなく、しかも当時収容されていた人達は自由にトイレに行くことができず、決まった時間に一斉に連れて来られて、一人あたり数十秒という時間だけを与えられて強制的に用を足さなければならなかった。

アウシュビッツの見学は想像していた以上に勉強になった。中谷氏のガイドは本当に淡々と説明するだけなのに、いろいろなサイトで絶賛されていたので、「どうしてこんな淡々としたガイドが絶賛されるのか?」と最初は不思議に思っていたが、彼のガイドを聞いていくうちに、その理由がわかるようになってきた。

アウシュビッツを見学し終えて思うのは、中谷氏のガイドは本当に有意義だったということだ。中谷氏のガイドではなくても、普通に飛び込みで英語のツアーに参加することもできるが、自分は絶対に中谷氏のガイドでアウシュビッツを見学することをオススメする。正直、最初は個人的にメールを送ることにも抵抗を感じたが、彼は全然普通に返してきてくれて、何の問題もなかった。中谷氏自身もたくさんの日本人にアウシュビッツで起こった出来事を知ってもらいたいと思っていると感じた。

中谷氏の解説でも、節々に感じることだったのだが、アウシュビッツに実際に来て学ぶことの意義は、「当時のユダヤ人はかわいそうだったよね」とか「当時のドイツ人って本当に酷かったんだね」とか、遠い異国の地で実際に起った事を知るだけのそんな単純なことでは無いと思う。

学ぶべきことは、「どうしてドイツ人はあんなにも冷酷になれたのか?」「どんな歴史と背景がそうさせたのか?」「アウシュビッツで起こったことは、その後の世界にどのような影響があったのか?」「そして現代にも続いている影響とは?」等を考えることだと思う。

そして、最も大事なことは、それらを考えることで「これから同じ過ちを繰り返さないためにも、どうしていったらいいのか?」ということを、各人それぞれが自分の頭で考えることなんぢゃないか?と自分は思う。

ホロコーストで亡くなった大勢のユダヤ人は、当然戻ってくることは無い。彼らの犠牲によって、我々が得たものは何だろうか? おそらく、それは「決して同じことを繰り返してはならない」ということだと自分は思う。

かつて日本も周辺の国々やアメリカ等に無謀な戦争を仕掛けていき、多くの現地の人々の命はもちろんのこと、本当に多くの日本人の命すら犠牲となった。そこまでして日本が戦争で得たものって何だろうか? それはただ一つ。領土や資源とかではなく、「もう、絶対に戦争なんかしてはいけない」という教訓を得ただけではないだろうか?

同じ過ちを繰り返さないためには、その過ちを「ピンポイント」だけではなく、「大きな流れ」で知っておく必要がある。ピンポイントで学んでしまうと単純に「ヒトラーは酷い奴だった」という結論にしかならないのだが、実際にヒトラーは本当に民主的な選挙によって圧倒的な支持を得てリーダーとなったわけだ。ではドイツ人は何故あんな人をリーダーにしてしまったのだろう?といった感じで全体を捉えていくことが重要だと思う。

そういえば、どこかの国でも国民の圧倒的な支持で首相となって、新たな安保法案とかをバンバン国会で通してしまう国ってなかったっけ?

もう一つ、アウシュビッツに来る前に、たった一日しか滞在しなかったベルリンだが、その短い期間だけでも何となく「ドイツ人は日本人と異なり、戦争責任に対して正面を向いているなぁ〜」と感じた。

彼らは自分達や先祖が起こした行為に対して本当に反省し、諸外国に謝っている感じがした。謝ることも重要だが、素直に向き合い、そして同じことを繰り返さない為に、ありのまま全部を後世にきちんと教育している。

ところが日本はどうであろうか? 確かに政府は国の方針として諸外国に謝罪をし、援助等の形で被害にあった国々を支援したりしている事実がある。しかしながら我々は日本が起こした戦争についてありのまま全部の教育を受けているだろうか? 何となく「原爆の被害を受けた」とか「東京大空襲でたくさんの被害を受けた」とかいう終戦直前の被害については教育されているが、「どういった経緯で周りの国々に戦争を仕掛けていったのか?」という点については、細かく教育されていないんぢゃないか?と自分は思う。

確かに「自分のじいちゃんはこんなに悪い人だったんだ」なんて、決して認めたくはない。しかしながら、「そういった事実はあった」ということは、しっかり教育することで、日本人がまた同じ過ちを繰り返さない努力が必要なのではないだろうか? 我々は現在のドイツの姿勢を見習う必要がある気がする。

また、アウシュビッツで起こった過ちの結果は現在にも繋がっているという事実を把握しておくことも必要だと思う。

例えば、アウシュビッツで起こった出来事は、特に「アンネの日記」等で世界中に広く知れ渡ることとなる。それによってユダヤ人に対する世界中の同情が巻き起こり、その結果「イスラエル」というユダヤ人の国ができる。

これだけ見れば「めでたしめでたし」となるが、そこには続きがあり、イスラエルが建国されたことによって、周辺のアラブの国々との紛争が発生し、それは現在においても解決していない。これらと日本は全然関係ないと思われがちだが、イスラエルと周辺のアラブの国々が戦った中東戦争において、「オイルショック」というものが発生し、日本にも大きな影響があったことは周知の事実だ。

歴史に「if」は禁物だが、もしアウシュビッツの出来事が起こらず、ヨーロッパの中でユダヤ人とその他の民族がそこそこ仲良く暮らし続けたとしたら、中東戦争は果たして起こりえただろうか? そして、現在も問題になっている「IS(イスラミックステイト)」の活動は起こっただろうか?

このように、太古の歴史から現代史、さらには現在は本当にいろいろな所で繋がっていることがよく分かる。となると、この先の未来も現在のいろいろな部分がつながっていくのだ。

歴史を学ぶ本当の意義とは、この未来を間違ったものにしないために我々が行う努力のお手本や教訓を知ることではないだろうか? そういった意味で、アウシュビッツについて学ぶ事の意味が本当に大きいと感じた。

くどいようだが、これはあくまでも私個人の意見。「何が正しい」ということを言いたいわけではなく、是非アウシュビッツに行って、いろいろな事を真剣に考えて欲しいなぁ〜と思った。

アウシュビッツは一面にたんぽぽが咲いているのが印象的だった。悲しい出来事が起こっていた当時もたんぽぽはたくさん咲いていたと、奇跡的に生き延びた人が言っていたそうだ。たんぽぽが平和の象徴になってくれればいいなぁ~と思った。

さて、明日はいよいよ日本へ帰国する日なので、今日のうちにクラクフからワルシャワへ移動しなければならない。

アウシュビッツから来た時と同じバスでクラクフに戻り、とりあえず腹ごしらえをする。ワルシャワ行の飛行機の時間はまだあると思って、クラクフ中央駅に併設されたショッピングセンター内のフードコートで、自分で盛り付けて重量単位でお金を払うシステムのレストランで食事を取る。肉やサラダ等、自分の好きなメニューを好きな量だけ選択できるのがいい。

そんな感じでのんびりと食事を取っていて、飛行機の時間まで何をしようかなぁ~なんて考えながら、一応飛行機の時間をもう一度確認すると、1時間勘違いしていることにこの時点で気づく。

「うぉ!やべぇ!」と超焦って、そこからダッシュで宿に戻ってバックパックを取りに行く。んで、やはりダッシュで中央駅まで戻り、空港行きのバス乗り場へ。「バスがなかなか来なかったらやべぇなぁ~」なんて考えていたら、運良くバスはすぐに来て、空港に向かう。結果的に空港に着いた時には割と時間に余裕ができていたので良かった。

ちなみに空港行バスの中で隣の女性は何となく焦った感じだったので、どうしたのか?と聞いてみたら、「イギリス行の飛行機に乗らなくちゃならないんだけど、出発まで1時間を切っているの」と。

「なんですとぉ~!」国際線で搭乗まで1時間切っていたらヤバイでしょ~! 上には上がいるもんです。焦っていた自分がちょっと恥ずかしくなりましたよ。

そんなこんなで、自分は無事ワルシャワ行の飛行機に搭乗。ちなみにこの飛行機は7~80人ぐらい乗れる飛行機だったのだが、乗っていたのは10人ぐらいだった。大丈夫か?ポーランド航空。

クラクフからワルシャワまでは飛行機で30分ぐらい。ちなみに飛行機代は片道5000円ぐらいなので、割と便利。お金はあるけど時間が無い人にはちょうどいいんぢゃないか?

さて、ワルシャワの空港から市街までは昔はバスしかなかったみたいなのだが、現在は電車も通ってて便利(もちろん、バスは今も走ってます)。

電車はすごく新しくて近代的。夜だったからか、乗車率はそれほど高くなかった。

今回は「S2」線でワルシャワ中央付近の駅まで行ってホテルへ。空港から市街は20分ぐらいで着く。

そんなこんなで、12日目が終了。明日は日本への帰国の日。帰国の便までの時間でワルシャワの街をちょっと観光しようかと・・・。

ここまでとこれからの中欧旅
Day1・2 サラエボって本当はどんなとこなんだろう
Day3 国を二つに分ける境界って何?
Day4 自作 vs 本場のサバサンド 勝つのはどっち?!inトルコ
Day5・6 パムッカレは日帰りで十分だったぁ?
Day7 イスラエルの「黄金のドーム」がこんなところに!?
Day8 世界で一番美味いケバブはベルリンにあったぁ!?
Day9 あの騒乱があったウクライナの独立広場は今!?
Day10 ローカルバスで世界遺産へ行こう!
Day11 ヴィエリチカ岩塩抗ってどうやって行くの?
Day12 アウシュビッツで思うドイツ人と日本人の違いとは…?
Day13 最大の見どころワルシャワ旧市街は工事中だったぁ?

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