【カンボジア・プノンペン旅行記】~アンコールワットだけぢゃない!カンボジアの悲劇と復興を見に行くプノンペン旅~ (前編)

旅行日:2017/11/23

「カンボジア」と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは「アンコールワット」ではないだろうか?
アンコールワットは歴史も深く、その価値は非常に高いので、欧米人にも日本人の人気の観光地だ。

自分も10年ぐらい前に行って、現地の食べ物にあたり、お腹を思っきし壊して帰って来るという苦い経験をしてきた思い出がある。

そんなアンコールワットばかりが表に出てくるカンボジアだが、自分はそれよりも歴史的意味があると思っていることがある。
それは「ポル・ポト」率いる「クメールルージュ」が行ったいわゆる「カンボジアの悲劇」だ。
今からほんの4〜50年ぐらい前に、あんな悲劇的なことが起こったカンボジア。

アンコールワットがあるシェムリアップではなく、カンボジアの首都となる「プノンペン」には、今も当時の様子が色濃く残る傷跡がある。
今回の旅はその歴史を見に行くことと、現在のカンボジアの様子を知るべく、プノンペンを訪れてみることにしますよ。

カンボジアは現在日本からの直行便が無く、どこかを経由して行かなくてはならない。
経由地としては「ベトナム」「タイ」「マレーシア」あたりなのだが、今回たまたま「香港航空」の安めのエアチケがゲットできたので、香港経由とした。

しかし、若干不安だったのが、行きの香港乗り継ぎの時間が、予定では1時間を切っており「果たして本当に乗り継ぎが可能なのか?」という点。
まあ、航空会社が一緒なので、仮に乗り継げなくてもなんとかしてくれるだろうという軽い気持ちでいたのが、一応心配になり、羽田でチェックイン時に「この時間で乗り継げますか?」と聞いたところ「まあ、時間が短いんで急いでください」と、それだけ。

若干の「塩対応」に不安を抱いていたが、特にトラブルも無く、無事乗り換え完了。

カンボジアで有名な「アンコールワット」があるのは「シェムリアップ」という都市。割とタイに近いカンボジアの北西に位置する。
今回目指したのはカンボジアの首都であるプノンペン。位置的にはカンボジアの中央、というか若干南の、ベトナムに近い場所にある都市だ。

カンボジアへの入国は現在でもビザが必要。
もちろん事前に大使館へ行くか、郵送でビザを取ることもできるが、事前にネットで申請・支払いをしておき、現地空港でビザを取る方法もあるし、事前申請せず到着した空港で申請するアライバルビザも取得できる。

今回、事前にWebで申請・支払いをしておこうかと思ったが、そっちの方が空港でのアライバルビザ取得より若干お高めになるので、空港でのアライバルビザ取得にした。

カンボジアへ行く飛行機の機内でアライバルビザ申請に必要な一通りの書類が配られるので記入する。
ちなみに写真が必要なので、事前に用意しておく必要がある。写真のサイズは4×6cm。申請用紙に貼らずに提出してもOKみたいなのだが、自分は両面テープを事前に貼っておいたので申請用紙に貼って提出した。それが影響してるのかどうか?は不明だが、若干ビザの発行が早かった気がする。

ビザの写真については、羽田でチェックインする時にも「写真を持っているか?」と聞かれたので、やはり必要なんだと思う。
あと、ビザの申請料3〜40ドル(ざっくりでごめんなさい)が必要。
ビザの申請料なんてしょっちゅう変わるので、大使館のサイトなんかで事前に確認した方が良い。

ということで、プノンペンの空港に到着したら、まずビザ申請カウンターを目指す。カウンターの左の方が申請カウンター。右側がビザ受け取りカウンターだ。
ここではビザカウンターの写真を思っきしアップしているが、この写真を撮ると係員に怒られるので注意が必要。

申請窓口は用意した書類とパスポートを提出するだけ。
受け取りカウンターでお金を支払う。

ちなみに早く申請した者の方が、早くビザが発行されるわけではないので注意が必要。
自分の時は結構な人が受け取りカウンターで待っていたので「あぁ、こりゃ時間がかかるね」と、その辺をウロウロしようかと思っていたら、いきなり自分のパスポートの写真ページがカウンター越しから提示され、すでに待っていた人よりも早くビザが発行された。

アライバルビザはパスポートの空きページにこんな感じでどど〜ん!とシールが貼られる。
基本的にアライバルビザの有効期限は30日だ。

ビザが発行されると、普通に入国するように、イミグレで入国審査を受けて、無事入国となる。

さてターミナルから出ると、正面にはいきなりSIMを売るカウンターがお目見えする。
しかもカウンターは一つでは無く、4〜5個並び、しかもしっかりした常設店舗。
こんなしっかりしたSIM売り場は上海以来かな。

事前情報によると「Smart」というキャリア(日本でいうdocomoとかsoftbank等の携帯電話会社)の SIMが良いということだったので、Smartの窓口に行くと、窓口に料金表が表示されていた。
事前情報では確か数ドルぐらいの値段だったのに、そこに表示されていた料金は10ドル以上する。

「ん?なんか高くね?」と思い、隣の「metfone」というキャリアのブースに行くと、数ドルで3GBぐらいのプランがある。
帰国後にSmartのサイトとかを見てみると、どうやら観光客の足元を見て、安いプランは表示してないみたいで、わざと高いプランしか表示していないようだった。

ということで、通信速度やカバーエリアなんかに不安があったが、どうせ今回の旅はプノンペンにしか滞在しないので「たぶん大丈夫だろう」という、なんの根拠もない状態で、単に「安いから」という理由で「metfone」の数ドルのプランのSIMを買う。

結果的に通信速度も全然問題なく、プノンペン市街だったら全然快適に使えた。

プノンペンの空港は結構新しくて綺麗。
ターミナルを出たところには吉野家があったりするので、日本食が恋しくなったら是非どうぞ。

ターミナルを出ると、当たり前のようにタクシーやトゥクトゥクがたくさんいて「乗らないか?」と声をかけられる。タクシーやトゥクトゥクは快適だし、大きな荷物があったりすると楽なので良いのだが、今回はどうせバックパック1つで身軽なので、バスで市街まで行くことにする。

空港敷地を出ると、目の前に大通りがあるのだが、そこにバス停があるので、ここから乗る。

珍しく、バス停にはちゃんと路線図があるのだが、地図と一体になった路線図では無く、ただ単にバス停名が書かれた路線図なので、さっぱりわからず。

じゃあ、どうやって路線図を入手するんだ?と思って、ネットでいろいろ探ったのだが、プノンペン市街を走る路線バスの路線図は全然ヒットせず。

というわけで、仕方ないので自分で作成。

ざっくり描くとこんな感じでバスは走る。全部で9路線ぐらいあって、この地図の線の色は各路線のバスの色にもなっているので、参考にしていただきたい。

これは帰国後に知ったのだが、スマホのアプリで「Stops Near Me」というものがある。
これを使うと、自分の近くを走る路線やバス停が表示されてすごく便利。
ただし「Google Map」と連動しているので、現地で普通にネットが使える状況でないと使用は難しいので、現地SIMのゲットか海外ローミングでのネット環境確保は必須だ。

どこのバス停にも基本的に先ほどの路線図が書かれた看板が置いてあるし、場合によってはこんな感じで地面に「バス停」を示す表示が書かれている場合もある。

実際に走るバスの外観はこんな感じ。
予想に反してかなり綺麗なバス。余談だがバスの外側には思っきし「中国援助」という文字が書かれているので、このバスシステム自体、中国によるものなんだと思う。

バスの前後上側には各路線を示す色が塗られているし、番号も書かれている。
この写真は「05」番の路線のバス。
空港の前を走るバスは「03」路線(青色)だ。

外観からなんとなく予想はできたのだが、中もかなり綺麗。

バスに乗り込むのは車両前側の入り口からで、ドライバーの横に料金箱があって、そこにお金を入れる。料金はどこまで行っても一回「1500リエル」なので、結構安い。

基本的にはドライバーの横にある料金箱にお金を入れるのだが、車掌が乗っているバスは車掌にお金を渡しても良い。
その場合は、下写真のような支払い証明がもらえるが、車掌が乗っているバスは結構少ない。

カンボジアで流通する通貨は基本的に「リエル」という単位のお金なのだが、実際のところは「USドル」が普通に使える。
1US$=4000リエルで取り扱われ、基本的にこのレートは変動しない。
どんな小さな店でも1ドル札で払うとちゃんと受け取ってくれて、1ドルを下回るお釣りなんかはリエルで帰ってくる。

したがって、事前にドル札が用意できるのであれば、基本的に空港での両替は不要。
ただし、現在のプノンペンの物価からして、1ドル札を使う機会がかなり多いので、100ドル札なんか持ってても意味は無く、少額紙幣が大量に必要。

このバスでドル札が使えるかどうか?は不明。
自分は以前にカンボジアに来た時に余ったリエルがあったので、空港から市街に行くバスに乗るのに問題はなかったのだが、リエルが手元に無い場合は、その辺の人にとりあえず1ドルを4000リエルに両替してもらうか、空港にある売店で適当な物を買ってお釣りをもらう必要があると思う。

まあ、とりあえずバスに乗って「1ドル札しか無いんだけど〜」と困った顔をしていても、優しいカンボジア人のことであれば助けてくれそうだけど…。

そんなこんなで、とりあえず「03番」のバスに乗って、空港からセントラルマーケットがある市街地中心部へ向かう。

プノンペンの街は渋滞していることもあるので、2〜30分はかかるとみておいた方が良いと思う。

さて、セントラルマーケット付近でバスを降りたら、とりあえず確保していたホテルまで歩いて行くことにする。
腹も空いていたので途中にあった適当な屋台に寄ってみた。

屋台は当たり前のように、店の前の道端に机と椅子を置くスタイル。
自分が通りかかった時にはこんな感じで先客が居て、こんな地元の兄ちゃんたちと一緒に食べるスタイルになった。

兄ちゃんたちが食べていたヌードルっぽいのが美味そうだったので自分も頼んでみたのがこれ。

予想に反して(ある意味予想どおりかもしれないが)、麺はおもっきしインスタント麺。
しかしながら肉はたっぷりで、出汁は何からとったのか?は不明だが、そのままインスタントの粉を使った感じとは異なる味で美味かった。

久々のカンボジアでの食事で、今更気づいた事なのだが、屋台で食べるこういった料理で使われている肉は、いわゆる「内臓系」が多い。
あと、特徴的なのは、血を固めたプリンっぽいものが使われている場合も多い。
「血を固めたもの」と聞くと、「生臭い」とか「血の味がする」とかを想像しがちだが、実際に食べてみると、意外なことに無味無臭に近い(まあ、完全に無味無臭ではないが…)。
体にも良さそうで、クセも無いので、一般的に普及しているのも納得できる。

さて、小腹も満たされたので、ホテルを目指して歩いて行くと、途中にフードコートらしきものを発見。
先ほど麺を食べたばかりなのだが、ちょっと寄ってみることに…。
Google mapで調べると、どうやら「K63 Food Carts」という名前らしい。

街角のオープンスペース的な造りになったフードコートなのだが、自分の勝手な予想に反して、かなり綺麗なフードコート。
規模は小さいものの、若者が集まりそうな感じだった。

んで、台湾や香港などでもよく見られる豆花を売る店があったので食べてみることに…。

豆花とはいわゆる「豆腐」のこと。日本の豆腐とはちょっとちがって、デザート的に食べるパターンが多い。

この店でも「○○フレーバー」の豆花という感じで売られていたので、その中からとりあえず「タロイモフレーバー」の豆花を注文。

「トッピングは何にする?」と聞かれたので、ショーケースに並んだトッピングを見ると、かなりたくさんの種類のトッピングがあった。
んで「何品選べるの?」と聞くと「何品でも良い」と。
だったら「全部で」と、まあ海外だったらパターン化してきたやりとりで、全種類のトッピングを乗せてもらう。

それで、出来上がった豆花がこの写真。
豆花は冷たくされていたので、この暑いカンボジアで食すにはとても良いデザート。
豆花自体は正直、台湾で食べる方が美味いと感じるもので、「タロイモフレーバー」はあくまでも「フレーバー」であって、本当にタロイモが入っているのか?は、かなり怪しい感じだった。

とはいえ、そこら辺で甘くて冷たい物が食べられるのはとても良い。

さてさて、本日はもう暗くなって来たので、観光は明日に回すとする。

実は、今回カンボジアに来たら絶対に食べたいものが一つあった。それは「ポンテアコーン」というもの。ちなみにこの先2枚ぐらいの写真はちょっとグロいので、興味がなければ”ザザッ”とスクロールしていただいて構いません。

そんなポンテアコーンを食べるために、とりあえずナイトマーケット的な屋台が並ぶという場所に行ってみる。

ポンテアコーンとはフィリピンでは「バロット」、ベトナムでは「チュンヴィッロン」とか呼ばれている食べ物で、実は「羽化寸前の卵を茹でたもの」。

ネットで見かけて「うわぁ〜!、これ絶対に食べられない〜!」と思って、会社の後輩に勧めてみたところ、ちょうど自分が行く1ヶ月前ぐらいにアンコールワットを旅行する予定があるらしく、ついでに食べさせてみた。

んで、その後輩曰く「けっこう美味かったっすよ」と。

まぢで? ということで、彼が食べたのであれば自分も食べなきゃいかんでしょ〜!ということで、食べに来たのだ。

こんな食べ物が無い日本人にとっては、かなりグロテスクで食べられそうにもないが、この食べ物が一般的になっているカンボジアやフィリピンでは、結構普通にたくさんの人が食べているそうだ。

実際に注文してみると、香草とライム、そしてポンテアコーン2個がセットになってお皿に乗せられて渡される。んで、小さなスプーンを使って卵の上の方から殻を割ってみると、こんな感じで衝撃的な光景が見えて来る。

明らかに普通のゆで卵とは異なった光景。黄身の周りには生成しつつあった血管らしきものや、普通のゆで卵ではありえないスープが中に充満している。

さすがにここまで来たら食べるしかないとは思うが、そうは言っても目の前に実物があると、食べるのには結構勇気が要る。

とはいえ、勇気を出して食べてみることにする。まあ、地元の人は普通に食べてるし。

基本的には「超ハードボイルドゆで卵」的な感じで、やたら黄身の部分が多い気がする。
黄身と白身が反転したゆで卵みたいな感じがある。

掘り進んで行くと、黄身らしきものがあるが、普通のゆで卵と異なるのは、その黄身の表面にびっしりと血管らしきものが取り巻いているということ。
さらに、ゆで卵なのに、食べるとなぜか「肉感」を感じるということ。

実際に食べずに見るだけだとかなりグロい光景となる。
しかしながら、実際に食べてみると、これが予想に反してかなり美味しく、何個でもいけちゃう感じなのだ。
「肉味」のするゆで卵という感じ。「ゆで卵と鶏肉を一緒に調理しました」的な料理と考えても良いと思う。

正直、地元の人が普通に食べているのが納得な感じ。
もし日本にこれが一般的にあれば、普通に食べていると思う。

というわけで、興味のある人は是非お試しあれ!

ここら辺は屋台が並んでいる地域なのだが、先ほど食べたポンテアコーンの店の隣に、カンボジアのサンドイッチ「ヌンパン」を売る店があった。

この店、結構賑わっているうえに、ヌンパンをその場で作るおばちゃんの手際がかなり良い。
これはかなり味に期待が持てるんぢゃないか?という予想のもと、とりあえずテイクアウトで一個購入。

ヌンパンは、ベトナムだと「バインミー」という名前のサンドイッチ。
フランスパンであるバゲットにハムや野菜などを挟んで、アジア独特のテイストであるタレを塗ってある。
このタレや挟むものによって、各店の特徴が出てくるのだ。

カンボジアはかつてフランスに統治されていた時代があるので、フランスパンが一般的にある。

さて、肝心のお味の方だが、店の感じからかなり美味しいんぢゃないか?という期待を持ちすぎていたからか?実際に食べてみると、思ったほどではなかった。
別にまずいというわけではないが、ごくごく普通の味で、期待ハズレな感じがあった。

せっかくなので、もっと美味しい店を探してみようと思う。

そんなこんなで、カンボジアに到着したこの日はこれで終了。
明日は、この旅のメインの目的地である「キリングフィールド」に行ってみたりしようと思う。

さて、旅は2日目に突入。

腹が減っては戦が…。と言うぐらいなので、まずは朝飯へ。

昨晩ポンテアコーンを食べに行った屋台街にあって「歩き方」にも載っている「オルセーレストラン」へ行ってみる。

朝からそこそこ暑いカンボジア・プノンペンは、東南アジアの国の朝を象徴するように、朝からかなり活気がある。
車も多いが、バイクも結構多い。

昨晩ポンテアコーンを食べに行った時には、店はすでに閉まっていたのだが、朝は早くからやっていて、朝6時からやっている。

外観はこんな感じで、店内は結構綺麗。
地元でも有名な店のようで、客は結構いる。「歩き方」にも載っているぐらいなので、観光客ばかりかと思っていたのだが、ほとんどが地元の客ばかりだった。

この店は米の麵「クイティウ」が有名な店らしく、自分もそれが狙いで来たのだが、他の人が食べていた肉まんっぽい物が美味そうだったので、思わず頼んでしまう。

大抵この手の肉まんは、台湾で食べればどこで食べても間違いは無いという美味さだが、ここの肉まんは「大絶賛」というほどではなかった。とはいえ決して「マズい」というレベルではない。

さて、寄り道的な肉まんを食べてしまったが、当初の目的通り、米汁麵の「クイティウ」を注文。
豚肉だったり魚の団子だったりと、中に入っているもので、メニューはいくつかありそうだったのだが、自分はとりあえず、一番オーソドックスだと思われる「Pork」の麵を注文。

米の麵と透き通ったスープが特徴。
相変わらず麵の上には豚のひき肉の他には内臓系のレバーとかブニョブニョした肉が乗っている。

さて、肝心のお味の方だが、さすがに有名でこれだけ地元民もたくさんいる店だけあって、味はかなり美味しい。スープも味わい深くいろんな味がする、味も濃すぎないのが良い。

そして、量もかなり絶妙。
ちょうど飽きないぐらいの量で、かつ「足りないなぁ〜」とも感じないぐらいの量。
女性でもちょうど良いぐらいぢゃないか?と思う。

朝ごはんにするには、味も量もちょうど良い感じでオススメだ。

ちなみに、カンボジアではコーヒー文化が根付いているのか?は不明だが、朝からこんな感じのコーヒーを飲んでいる人がたくさんいたので、自分も頼んでみる。

欧米人が飲むコーヒーとは違って、いかにも「アジア独特」の練乳たっぷりで甘いコーヒーな感じが、今日一日の活力の源になりそうな感じでとても良い。
基本的に氷がたっぷり入っているので、気になる人はやめといた方が良いが、プノンペンの上水道は日本の「北九州市水道局」が整備しており、結構綺麗。
お腹の弱い自分でも旅の本当に終盤になるまでお腹を壊すことはなかった(まあ、最終的には壊したんだけどね)

さて、朝食でお腹が満たされたところで、セントラルマーケットまで歩いてみることにする。

特に目的もなく街をブラブラすると、いろんな景色が見えて面白い。
こんな感じで僧侶の姿が見れたり…

なんだ?これ?って感じの黄色い液体が入った瓶が並んでいたりする。
これは「ガソリン」。飲み物ぢゃありません。

もちろんちゃんとしたガソリンスタンドもあるのだが、バイクにガソリンを入れるんだったら、こっちの方がずっと気軽に入れられたりするんで、こんな場所が至る所で見られる。
しかし、ガソリンってかなり揮発性が高い液体なので、こんなんで大丈夫か?と心配になる。

そんなこんなで、セントラルマーケットに到着。

東南アジアの国々で「マーケット=市場」と言うと、プレハブの屋根に、汚ったな〜いカオス状態の場所を想像しがちだが、プノンペンのセントラルマーケットは立派な建物。

そして、中に入ってみると、意外や意外、建物内で売っているものは、おそらく観光客向けだと思われる貴金属類ばかりだ。ただし、正直「それって本物?」と言ってしまいそうになるものばかりなので、迂闊に手を出さない方がいいんぢゃないか?というのが個人的意見。

わざわざセントラルマーケットまで来たのは、セントラルマーケットが目的ではなく、そのさらにちょっと北側にある「クメールデザート」という店が目的だった。
この店は「歩き方」に「かぼちゃのプリン」が食べられるような事が書いてあったので、行ってみたのだが、実際のところ朝の段階ではかぼちゃのプリンは無く、ごくごく普通の朝食しかやってないとのこと。
では、他の時間帯だったらやっているのか?と思ったが、自分の調査した限りではやってなさそうだった。

そんなこんなで、目的を達成できなかったので、早々に諦めて本来行きたかったところに行くことにする。

今回プノンペンに来た最大の目的は「キリングフィールド」に行くことだ。
キリングフィールドの詳細については後ほど述べるとして、プノンペンの中心街からはちょっと離れており、公共のバスなんかは無いので、バイクタクシーかトゥクトゥク、またはタクシーなんかでしか行けない。

今回自分は一人だったので、先ほどの「クメールデザート」のお店の近くでたむろっていたバイクタクシーのおっちゃんに声をかけて行ってもらうことにした。
「歩き方」によれば「バイクタクシーで往復10US$」と書かれていたので、「だいたいこうゆうのって実際に交渉すると、それより高いんだよねぇ〜」と思いつつ、とりあえず10US$から交渉を始めると、あっさり「いいよ」と。「えっ?いいの?」と、逆にこちらがびっくりするぐらいあっさり決定。

というわけで、バイクに二ケツ状態でキリングフィールドへ。時間にしてだいたい20分ぐらいかな。
女性だったらトゥクトゥクにしておいたほうが良いと思う。

なんの参考にもならんが、今回チャーターしたバイクタクシーのおっちゃん。

だいたいこうゆうのって、すんごいとばしたり荒い運転だったりするのが普通なのだが、今回雇ったおっちゃんは、気が優しそうで予想に反してかなり安全運転のおっちゃんだった。
良い人を雇った気がする。

早速入場料を払って中に入ると、中央にはこんな感じの立派な祈念塔が見えてくる。
ちなみに、ここは入場料を払うと、別途料金は必要なくオーディオガイドがついてくる。
もちろん日本語のオーディオガイドがあるので、しっかり聞いた方が良い。

オーディオガイドと一緒にもらうパンフレットに書かれている順番通りに一通り見て行くと、まずこんな感じで「この場所がどんな場所かつてどのように使われていたのか?」と解説する案内板がある。
実際の場所は単なる「さら地」なので、看板がなければ通り過ぎてしまうような場所だ。

さて、ここから先は時折衝撃的な写真も出てくるので、気分が悪くなるようであれば、ささっとスクロールしてくだされ。

さて、ここからは、ポルポトの行った政策について、その背景と経緯を簡単に説明することに。

時はベトナム戦争さなかの1970年にさかのぼる。

ベトナム戦争で苦戦を強いられていたアメリカは、北ベトナム軍が兵士の移動や物資の移動をする際にカンボジア国内を通っていることを知っていた。アメリカとしては物資の補給路を断ちたいところなのだが、ベトナム戦争に対して第三国であるカンボジアを爆撃したりすることができない。

また、カンボジアとしても、物資の補給路として自国内が使われていることは知っていたのだが、北ベトナム軍や南ベトナム軍(アメリカ軍を含む)どちらとも敵対することを避けたいため、そのことに対しては見て見ぬふりをする政策を取っていた。この時カンボジアは「シアヌーク殿下(最近亡くなった)」による王政であった。

業を煮やしたアメリカ軍(CIA)は、カンボジア政府軍の幹部をそそのかして、クーデターを起こさせることにした。ここら辺はアメリカ(CIA)の常套手段ですな。世界のいろんなところで同じことをやるアメリカ。

シアヌーク殿下がモスクワ訪問中に「ロン・ノル首相」がクーデターを起こし、アメリカと共同でカンボジア領内にいる北ベトナム軍などを攻撃。一方祖国を追われたシアヌーク殿下は中国・北京に住み、ロン・ノル政権に対して「反ロン・ノル」の指揮をとることになる。
それまで、カンボジア国内で自ら弾圧していたカンボジア共産党と共闘して、反ロン・ノルの統一戦線を結成することになる。これを「カンプチア民族統一戦線」と言う。

もともと、シアヌーク殿下の人気は高く、カンプチア民族統一戦線の活動は農民の指示を得て、国内で勢力を伸ばすことになる。
この時、カンプチア民族統一戦線の活動の中心になったのは、「ポル・ポト」が指導するカンボジア共産党とそれを支援する北ベトナム軍だった。
このようにして、カンボジアで内戦が始まり、戦争から逃れて来た難民は、首都のプノンペンに流れ込み、首都の人口は一気に膨れ上がることになる。

このカンボジア内戦によって、最終的にクーデターを起こした「ロン・ノル政権」は崩壊することになった。

首都プノンペンから逃げ出さずに留まったロン・ノル政権の兵士や政府高官は直ちに全員殺されることになり、市民たちは「これで内戦が終わる」と喜んだのだが、翌日からもっと悲惨なことが始まることになる。

(写真は、大量の骨が出て来た場所。死体捨て場だったと考えられる場所)

ロン・ノル政権の崩壊によって、カンボジアの実権を握ったポル・ポトは、翌日からプノンペン市民200万人を一人残らず市内から追い出す。それは入院中の病人だろうと、高齢者・幼児でも一切の例外は認められずに、市民は着のみ着のままで追い出される。
当然のごとく、中には反抗する者も出てくるのだが、そのような人たちはその場で殺される結果となる。

ポル・ポトとその仲間たちにとっては、都市の住民は敵。
自分たちが農村で戦っている時に戦場を逃げ出して都市に逃げ込んだことが許せなかったのだ。
さらに、都市から住民を追い出せば、自分たちの地位を脅かす勢力は無くなり、追いやった200万人の市民を新たな農業労働力にすることができると考えたのだ。

ちなみに、カンプチア民族統一戦線を北京から指導していたシアヌーク殿下は、ポル・ポトにとっては国民の支持を得るためのいわゆる看板に過ぎず、自らが権力を取ったあとは役割を終えた存在に。なので、中国から帰国したシアヌーク殿下は王宮に幽閉されてしまうことになる。

あれ?国民をいくつかの階層に分けて、各層の国民の価値や待遇を政治的に決めている国って、今でも日本の近くになかったっけ?(北◯鮮)

そもそも、ポル・ポトは極端な「原始共産制」という政策を目指していた。

「原始共産制」というのは「原始時代にはこうゆう共産主義社会があったのではないかと理論的に想定されている社会」のこと。
共産主義なので、あらゆる生産手段を共有して、生産されたものは平等に分配される社会を目指すわけ。
ただし、本来の「共産主義」とは資本主義がどんどん成長していって行き着く先だと考えられていて、高い生産性に支えられた社会のことなのだが、ポル・ポトが行った「原始共産制」は生産性が低く、全員が働かなくてはならなかった点で、きわめて平等な社会が存在したはずだという考えに基づいている。
具体的には農業を主体とする自給自足のために、全員が肉体労働に従事するわけ。

国民は農業を基本とした肉体労働に従事し、その生産に得られたものは平等に分配されることを目指した社会なので、当然のごとく貨幣は廃止。
あのように遺跡が破壊されているのはこういった背景があるから。

そもそも、ポル・ポトの行った政策の最大の特徴は「知識人敵視政策」。
中学校を出ているだけで知識人として抹殺の対象になり、字が書ける者・本が読める者は「知識人」。極端なのは眼鏡をかけているだけで「知識人」とみなされ、抹殺の対象となった(眼鏡をかけているということは勉強をすることで目が悪くなったんだろうという考えから)。

そもそも、ポル・ポト自身はフランスにも留学したことのある知識人。フランス留学時代から共産主義の考えに没頭し、こんな極端な共産主義政権を目指す結果になるのだが…。

知識人は自ら考え行動を起こすので、自分が支配する上で邪魔にしかならない存在だと考えていたのだ。

このキリングフィールドはそんなポル・ポトの考えによる「新住民」や「知識人」の強制収用・殺害・廃棄の場所となった場所なのだ。だから「キリング(殺す)フィールド(場所)」

キリングフィールドはプノンペンの市街からは離れていて、公共のバスなどが走っていない場所だということは先に述べた。
実際にここに来てみると、途中から建物とかがかなり少なくなった郊外の場所だというのが、容易に感じられる。では何故ここがキリングフィールドとなったのか?

それは市街地から適度に離れ、人里のない場所だったのが好都合で、殺害の行為を周辺住民に見られるような事もなく、また殺害による悲鳴やうめき声なんかも、周りに聞かれる心配がなかったという点でこの場所が地獄の場所となってしまったのだ。

ポル・ポトの政策では、国民を共同農場で働かせ、家族というまとまりは解体。共同農場の食堂で一緒に食事をとること強制。子供たちは5〜6歳で親から引き離され「国家の子供」として教育を受け、恋愛は認められず、党が決めた相手と結婚して子供を産むことを矯正される。

家族と引き離されたことに抗議したりすれば、即刻「反革命」として処刑の対象となる。

しかしながら、そこで働く人は、もともと都市に住んでいてい農業については素人。普通に収穫できるかどうかも微妙なのに、そんな無理な農業生産量なんか達成できるわけもなく、とうとう飢饉が発生する。

ポル・ポト政権にとっては。飢饉で人がバタバタ死んで行っても、新住民は田畑の肥やしになるだけの価値しか無いとしか考えていないのでお構いなしだ。

なぜ、そんな農業政策を行なったのか?それは中国の「大躍進政策」を真に受けたため。
毛沢東の行った「大躍進政策」は結果的には全く上手くいかなかったにも関わらず、対外的には大成功したように伝えられていたため、ポル・ポトはそれを真に受け、同じように行えば良いと考えたのだ。

まあ、結果的にそんなポル・ポトの政策は上手くいくわけもなく、3年8ヶ月でポル・ポト政権は崩壊。
その後もカンボジアは混乱を極めることとなるのだが、その3年8ヶ月の間にカンボジア国民の多くが命を落とすという悪夢のような結果となった。

どれだけの国民が犠牲になったのか?という性格な数字ははっきりしていないのだが、国際機関によればおよそ100万人と考えられている。また現在のカンボジア政府は300万人と考えており、当時のカンボジア人口は600万人と考えられているので、6人に1人、最悪の計算で言えば国民の半分がポル・ポト政権によって命を落としたということになっている。

この写真の木はキリングフィールドにある木なのだが、この木には多くの慰霊の飾りがしてある。
というのもこの木はポル・ポト政権によって、子供(特に赤ん坊)の足をもって、頭をこの木に打ち付けて、次々と殺していったと言われている木なのだ。

この木の横には、やはり大量の遺体が出て来た場所がある。
想像するにも悲惨なのだが、彼らはこの木に打ち付けて殺害し、そのすぐ横の死体捨て場に次々と捨てていったんだと思われる。
おそらく、何らかの作業をするように殺して行ったのではないか?と想像される。

途中、なにやら古びたようなガラスケースが置かれて、中に何かが入っているので覗いてみると…

大量の骨と歯だった。これはこの場所から出て来たもので、これだけ見てもどれだけの人が犠牲になったのか?というのが想像できる。

現在では基本的に全ての遺体の回収は済んでいるのだが、それでも雨が降って地面が削られたりすると、たまに回収から漏れた骨が出てきたりするらしい。

自分はオカルトでも何でもない。
ただ、その事実をありのまま伝えたいので、あえて、写真を加工することもせずにそのまま載せようと思う。

キリングフィールドの真ん中に鎮座する祈念塔にはポル・ポトによる虐殺の犠牲いなった人々の遺骨が納められている。
これはイミテーションでは無く正真正銘の本物である。
これは犠牲になった人々のほんの一部だとは思われるが、それでもここまでの現実を目の当たりにすると、言葉も出ない。

遺骨をそれぞれよく見てみると、赤や青などの小さなシールが貼られているのがわかる。

ここに納められた遺骨は一体一体詳しく調査され、性別・年齢・そしてどのように殺されてしまったのか?を確認され、その結果をシールで示しているのだ。

敷地の端の方には資料館もある。

資料館内部の展示物は少ないものの、当時どのような行為が行われていたか?等の展示がされていた。

キリングフィールドで感じた個人的な感想は、これまでの世界史の中で、ある日突然情勢が大きく変わり、突然多くの命が犠牲になったりするということは否めないということ。
そう考えると、現在の平和な日々が突然地獄のように変わる可能性も否めないし、平和でいる状態をキープし続けるのは、本気になって各個人が努力しないと継続しないんだろうと思う。

ポル・ポトの行って来た行為が「良いことなのか?悪いことなのか?」については、誰が見てもその答えは明らかだろう。
ただし、この歴史を通してわれわれはついついポル・ポトだけが悪者のように考えがちだ。
しかし、そもそもポル・ポトが台頭した背景にはどんなことがあったのか?
それを仕掛けた者もしくは国はどこなのか?
そうせざるを得なかった歴史的背景を作ったきっかけは?

どこかの大国が「正義」と声高に謳っていたりするが、お前ら本当に正義なのか?

われわれは各個人でそんなことをよく考えてみる必要はあると思う。

キリングフィールドは現在は何も残っていないただの更地なので、それだけでは衝撃は少ないのだが、祈念塔にある遺骨を見ると、本当に心が痛む衝撃的な場所だった。
かつて、この地でそんなことが起こった事実を再認識しながら、現在のプノンペンの発展を見ると、見方がちょっと変わってくるかもしれない。

そんなキリングフィールドを後にし、続いて向かったのは、こちらもポル・ポトにおける負の遺産である「トゥールスレン ジェノサイド・ミュージアム」へ、先ほど雇ったおっちゃんのバイクタクシーで行く。
トゥールスレン ジェノサイド・ミュージアムはプノンペン市街にある。

トゥールスレン ジェノサイド・ミュージアムも、キリングフィールドと同じような強制収用施設だったが、こちらは特に政治犯を収容する施設だったようだ。

ポル・ポトの行った政治は上手くいかないのは誰の目にも明らかなのだが、「ポル・ポトが指導する革命が成功しているのに、飢餓が進むのは、その革命を誰かが妨害しているからに違い無い」という、さらに呆れた考えにより、その犯人を拷問してあぶり出そうとして利用された施設。

拷問することで「私はアメリカの手先です」とか「ベトナムと通じています」といった自供をさせようとするのだが、それは拷問から解放されたく発するものであって、拷問を受けていた人たちが革命を妨害している犯人なわけではない。

看守だって、手ぬるいことをやれば自分にあらぬ疑いの目が向けられ、拷問を受ける可能性があることは十分に理解していたため、なんの躊躇もなく拷問した。

ここで拷問されて亡くなった人を埋める場所が満杯になったこと。そしてこの場所が市街にある為、拷問による叫び声が周囲に響くことから、先に述べた「キリングフィールド」に拷問・処刑の場を移したという経緯がある。

トゥールスレンは拷問の場所として作られたわけではなく、もともとは学校。
なので「明らかに教室」と思われるような作りの部屋に、むりやりレンガで独房のような物を作られていたりする。
また、中庭に面する解放的な廊下には全て金網のようなものが設置されていた。
これは、拷問に耐えきれなくなった人が飛び降り自殺をするのを防ぐ為。
「まだ自殺するほうがマシ」と思うほどの拷問だったこと、そして最終的にここから生きて出られた人がたったの8人しかいなかったことを考えれば、どれだけ悲惨な施設だったのか?ということがわかる。
ちなみに2年9ヶ月の間に収容された人は14,000〜20,000と言われている。

この施設も入場料を払うと、オーディオガイドが無料で付いてくるので、じっくりと聞いて当時の悲惨さを想像してみると良いと思う。

トゥールスレン ジェノサイド・ミュージアムを後にして次に向かったのは、イオンモール。

少し離れた場所にあるのだが、大通りまで歩いて行き、そこから先に説明したバスで向かえば一本でいける。
バスは「05番」のバスに乗れば良い。

と、大通りまで歩いている最中に、プノンペンの消防署の前を通りかかった。

消防署に置かれている消防車には見慣れた漢字が書かれているが「◯◯市消防署」の「◯◯」の部分がペンキで消されていた。
おそらく、日本の中古車がプノンペンに渡り、現役として活躍しているんだろうと思う。

近づいてよく見てみると、ガラスのところに貼られた車庫証明は今でも貼られたままで、それをみるとどうやら、愛知県江南市になっていた。江南市にある消防署で働いていた消防車なんだと思われる。

そんなこんなで、イオンモールに到着。
別に何か欲しい物があったわけでもなかったのだが、プノンペンにあるイオンモールはどんな感じになっているのかなぁ〜?と単純に興味があっただけって話。

外観は日本の地方都市にあるイオンモールと変わらず。そしてデカい。
中に入ると、こちらも日本と同じ。ピカピカで綺麗だ。
カンボジア・プノンペンとして、日本人が勝手に想像する姿とは全く違う。

売られている物を見ると、こちらもほぼ日本と同じだ。
まあ、日本では魚なんかはほとんどが切り身としてパックで売られているが、もちろんこちらもパックで売られている切り身も多いが、一匹まるまるを氷の上に置いて売るスタイルもたくさんある。

市場で売られるスタイルであり、こちらの方が現地の人には馴染みやすいのかも。 

パックになった寿司の種類も量も豊富。
今や世界中どこでも寿司が見られるようになった。
ここまで売っているのであれば、それなりに売れるんだろうけど、カンボジア人が寿司を食べる姿があまり想像できない。

これは個人的な感想だが、やはりイオンで買い物をしているような現地の人は、なんとなく富裕層の人が多い気がする。
完全に見た目で想像してしまっているので申し訳ないが。
やはり、一般市民は普通に市場で買ったりするのが普通だったりするんだろうと思う。

イオンモールの中にはフードコートも充実していたので、ちょっと食べてみることに。

フードコートにおいてあるメニューはさすがにカンボジア人向けが多い。
自分はおかゆとサトウキビジュースをチョイス。
日本のイオンではなかなか選択できないメニューだ。

こちらのおかゆにも、豚の血を固めたゼリー状の物が具として入っていた。

イオンモールの中にあるゲームセンターの横を通りかかったら、地元の子供が「太鼓の達人」をやっていた。
「お〜!太鼓の達人ぢゃん!」と思って良く見てみると、画面表示は全て日本語。
しかしながら、そんなことはお構いなしに地元の子供は見事にこなしていたのはちょっと衝撃的。

さて、そんなイオンモールをさらっと見たら、今度は今日朝一に行ったセントラルマーケットをちょっとしっかりめに見てみようと思って移動。「05番」のバスと「01番」のバスを乗り継いで行けば、全然歩かなくても行けちゃうので楽。

セントラルマーケットの建物は十字架のような不思議な形をしていて、先に紹介したように、建物中は基本的に観光客向けの貴金属類や、怪しげな時計やサングラス等を売っている。

んで、その隙間を埋めるように、一般市民が買うような食料品や日用雑貨、花なんかが売られている。
自分が実際に見て回ったところ、ざっくりとこんな感じの配置であった。

怪しげな貴金属類には全く興味がないので、一般市民が買いそうな食料品のエリアなんかを探索する。
建物内の貴金属エリアより、食料品エリアの方がぎっしりと詰まった感じになっていた。

見た感じでは特に魚介類系が豊富に見受けられる。魚も多いが、エビやカニなどの甲殻類系が多いように感じる。
あと、保存用に干物にした魚類も多いのが特徴。

東南アジアだけあって、野菜類も結構豊富。

衝撃的だったのは新鮮な食材(生きた鶏:写真下)がカゴにぎっしりと詰められて売られていたこと。しかも結構たくさん。
カンボジアは中国に近いこともあって、そこら辺から文化が来ているのかなぁ〜?と勝手に想像。

あたかもセントラルマーケットを探索するために来たように書いたが、本当は別の目的があって、かぼちゃのプリン(ラパウソンクチャー)を探しに来た。
良く日本のテレビでやっているので、プノンペンの街中だったらそこら中で見られるのかと思いきや、なかなか見つからず、セントラルマーケットだったらあるかなぁ〜?と思ったのだ。

結構探し回ってやっとこのと発見!
下写真のようにかわいらしいお姉さんがやっている甘味処にあった。

自分の勝手な想像では、かぼちゃのプリンは単体で食べるものかと思っていたのだが、実際にはこの写真のように、氷とシロップ(ココナッツミルク)と一緒に食べるものらしい。
お姉さんはかぼちゃの皮の硬い部分をある程度取って、一口大にカットした後、シロップと氷を入れて渡してくれた。

さて、肝心のお味の方ですが、自分は期待を大きく持ちすぎたのかもしれないが、プリンの素材はかぼちゃを使っているのかと思ったのだが、中身はなんとなく市販の「プリンの素」で作ったようなゼリーのような感じ。
日本人が真面目につくる「焼きプリン」のような感じはなく、ゼリーに近い。

決してマズくは無いのだが、卵とミルクの味がしっかりするかぼちゃ味のプリンを想像していただけに、実際はちょっと違って残念だった。
もっと違う店だったら違った味なのかもしれない。

この後ホテルに戻ってちょっと休憩した後、日が落ちてから夕飯を食べに出かける。

せっかくなんで、屋台でうまいものを食べてみたい(お腹の方は心配だが)

というわけで、独立記念塔の近くにある交差点へ。

前日夜に通りかかったら、そこそこ客がいた屋台へ。
料理をするのは店主のおっさんで、家族経営的な感じで奥さんらしき女性や兄弟なのか子供なのか分からないが、若い兄ちゃんとかが、真面目に働いている良さそうな店だった。

料理をつくるおっちゃんの手さばきはかなり見事なものだった。

注文したのがこれ。
焼きそばとチャーハンという炭水化物のオンパレード。

おっちゃんが作っているところを遠まきに見ていたのだが、けっこうがっつり化学調味料(味の素らしきもの)を使っていたのだが、まあ、そこらへんは気にしないとしても、結構美味い。
自分が想像する「屋台の味」があって、東南アジアの街なか、しかもガンガン車が走る交差点でのんびりと食べる屋台飯は、なんだが自分だけがゆっくりとした時間が流れているようで、心が落ち着く。

屋台飯といえば、これは別日の話なのだが、屋台で本格的な釜で焼くピザがあって、しかも激安だという情報を得て行ってみた。

場所はセントラルマーケットよりも少し南側ある、外国人が集うようなバーなどの店が多くある場所の一角に店を出す「Katy Peri’s Pizza」

この店、ちゃんとした固定の店舗を持っているわけではなく、リヤカーの屋台。
そこにかなり本格的な釜を載せているのでちょっと驚く。
日本で言えば、軽トラに釜が乗っている石焼き芋の車(こっちは人力で引く)を想像してもらいたい。
しかもリヤカーの屋台なのに、Google Mapにはちゃんと店の名前が出ているのも驚き。

ピザをつくるのもかなり本格的で、おそらく事前にある程度こねてある生地を、その場で伸ばし、その場でチーズやらなにやらを乗せて釜で焼く。

ネットの情報ではかなり美味しい!と絶賛だったのだが、個人的にはそこまで絶賛するピザでは無いが、ちゃんと生地から作って焼いているので、そこそこ美味しい。
嬉しいのが、そんなに本格的に作っているのに値段がかなりお安いところ。

店舗は夜しかやっていないので、まともな「夕飯時」では店が出ていない可能性もあるが、「飲んだ帰りのシメでちょっとピザを…」なんていう時間帯では店はやっていると思う。(だいたい夜9時以降ぐらい)

夜中にちょっと「小腹が空いたなぁ〜」と思ったら行ってみると良い。
ピザはそれほど大きくなく、生地も薄いので、一人でもペロッと食べれる感じだ。

そんなこんなで、キリングフィールドやトゥールスレンで、衝撃的なカンボジアの負の歴史を学んだ濃厚な今日1日は終了。
明日は、プノンペンの「ド観光地」をのんびりと回ってみますよ〜!

トップへ戻る