【ウズベキスタン旅行記】Day3 ブハラは半日もあれば全部見れちゃうコンパクトな観光地だった!

ウズベキスタンについてほとんど興味が無い人でも「サマルカンド」という地名を聞いたことがあるという人は多少いるんぢゃないか?

そのぐらい「サマルカンド」というのは有名な地だが、タシュケントから寝台列車に乗った自分はそのサマルカンドをすっ飛ばしてブハラに向う。

タシュケントからブハラまではおよそ6時間の道のり。全然寝れないかと思ったが、ゴトゴト揺れる電車の揺れが逆に心地よく、結果的には結構寝ていた。途中コンパートメントの暖房が強くて「暑いなぁ~」と思って起きたぐらい。

お金の事を言えば、当然ピンキリだが、タシュケントでの宿泊代はそこそこ普通のホテルで2~30US$ぐらい。タシュケントからブハラまでの寝台列車の料金は自分が乗ったクラスでおよそ25US$で、結果的に宿泊代と乗車券が合体したようなものなので、一泊分の宿泊代が浮いたような気持ちになる。当然シャワーとかは浴びれないが、1泊ぐらいだったら我慢できるレベル。

列車は早朝にブハラに到着。と言っても列車の駅はブハラにあるわけではなく、ブハラから少し離れた街「カガン」という所に停まる。

まだ日が明けきらない時間に列車は到着。「まだもう少し寝たいなぁ~」という気持ちに見まわれつつも眠たい目をこすってホームを歩く。

列車にはかなりの人数が乗っていたようで、カガン駅ではかなりの人数が民族大移動のようにわらわらと出口に向かっていく。そんな人の波に乗っかってカガン駅を出る。

カガン駅の出口には恒例の「タクシーの客引き壁」が待っており、タシュケントよりは若干控えめだが、それでもしつこいタクシードライバーを無視してまっすぐ進むとバス乗り場が見えてくる。

駅とバス乗り場の位置関係はこんな感じ。人の流れに沿って歩いていけばバス乗り場が見えてくるし、列車に乗っていた人の半分ぐらいは迎えの車に乗って行ったが、残りの半分ぐらいはバスに乗るようで、バス停の方向に向かっていくので、その流れに乗っかったままでバス停にたどり着ける。

バス乗り場はこんな感じ。バスと言っても基本「ミニバス」だが。

ブハラ市街までは268番のバスに乗ってたどり着けるが、「ブハラ」というキリル文字(写真に書いた文字参照)が書かれたバスであれば、268番でなくても大丈夫と地球の歩き方には書いてあるが、自分が利用した時には268番のバスは何台も待機していたので、268番のバスに乗ればいいんぢゃない?と思う。

ミニバスってだいたい乗せれば乗せるだけ儲けになるので、定員いっぱいにならないと出発しないもの。ここのミニバスも同じで、定員いっぱいになって出発する。

夜行列車に乗っているような人たちなので、大きな荷物を抱えた人も結構いる。なので人数の割に車内はギュウギュウ感が高い。

カガン駅からブハラの市街まではおよそ15~20分ぐらい。料金は2016年1月現在1000スム(約25円)だった。

バスの中でiPhoneのオフラインマップアプリ(Maps.me)を駆使しながら現在地を確認し、もともと中心地である「ラビハウス」付近で降りようと思っていたのだが、中心から1つだけ少し離れた所にある観光ポイント「チョル・ミナル」の近くを通るようだったので、チョル・ミナル付近でバスを降りる。

バスが通る大通りからチョルミナルまでは住宅街の中の道を北に進めばたどり着ける。

さて、バスを降りた場所からiPhoneの地図とガイド本の地図を見比べ、方向とかを確認するために立ち止まっていたら、ちゃりんこを押して歩く現地のおっちゃんが通りかかり「どこ行きたいんだ?チョル・ミナルか?」と、当然現地語なので分からないが、雰囲気的にそんな感じの事を聞いてきたので頷く(うなずく)と、親切にも北の方向を指さして「プリャーマ」と言われた。プリャーマの意味がわからなかったが恐らく「ここをまっすぐ」という意味だと思う。この後、この旅の中では何度か現地人に「プリャーマ」と言われる機会があった。

大通りからチョル・ミナルまでの道は道と言うより「裏路地」もしくは「家と家の間」と言ったほうが正しいような道で「ここ、通っていいんだろうか?」と若干不安になるような道だった。

さて、そんな道を進んでいくと住宅街の中からいきなり現れる「チョル・ミナル」。

すごく小さな建物には似合わない極太の4本のミナレットがとても印象的。それほどデカイ施設ではなく、早朝の静かな住宅街にひっそりと佇む感じでとても雰囲気がよかった。

さて、チョル・ミナルからは再び歩いて中心地のラビハウス方向に向かっていく。

やはり「ここ、歩いていいんだろうか?」と不安になるような裏路地を歩いて行くのだが、ここに限らずブハラの街はこういった道がどうやらスタンダードのよう。

ガイド本にはチョル・ミナルが「他の観光ポイントから離れている」と書かれていたので「結構歩くんだろうなぁ~」と思っていたのだが、そんなことは無く、中心地のラビハウスまでは結構すぐだった。

これはブハラ街歩きのちょっとしたTipsなのだが、ラビハウスにあるナディール・ディヴァンベギ・メドレセ付近には公衆トイレがある。自分は利用してないので分からないが、外から見る限りそれほど汚そうな感じでもない。

のんびりとブラブラ歩いていたら、中心地であるラビハウスに到着。ここにはナディール・ディヴァンベギ・メドレセという立派なメドレセがある。

ナディール・ディヴァンベギ・メドレセの正面には鳳凰と太陽が書かれている。これはイスラム教の教義である偶像崇拝に反する行為。実は設計者はここを本当はキャラバン・サライ(行商の人々の為の宿)にするつもりで作っていた。ところが時の権力者が「お~!これは立派なメドレセ(神学校)だね」って言っちゃったもんだから、その設計者が「えっ?まぢで・・・(汗)」と、権力者に逆らうことはできず、しょうがなくメドレセにしたという逸話がある。

そんな設計者にとっては不運なメドレセだが、外観の模様はとても綺麗で見応えは十分だ。

中に入ると一般的なメドレセと構造は全く同じ。2階建ての建物で、現在は1階のほとんどがお土産屋になっていた。

ナディール・ディヴァンベギ・メドレセの前には、ユーモラスな格好をした「フッジャ・ナスレッディンの像」がある。

彼は立派なイスラム神学者なのだが、ユーモラスな授業をする一面もあり、人々の人気を得ていた。ということで、この像もユーモラスな格好をしている。「触ると幸せになれる」という言い伝えがあって、みんながこの銅像を触るもんだから、銅像の一部がピカピカになっていた。

フッジャ・ナスレッディンの像の前にはこんな像も置かれていた。多分当時の行商の姿だと思うが、こういった風景でシルクロードを歩いていたのかなぁ~と想像したりする。

ナディール・ディヴァンベギ・メドレセとちょうど反対側に位置する部分にナディール・ディヴァンベギ・ハナカがある。ハナカとは巡礼宿。こちらも正面の模様が綺麗だが、全体的に落ち着いた感じ。

ナディール・ディヴァンベギ・ハナカから西へほんの1分ぐらいのすぐ近くにマゴキ・アッタリ・モスクがある。

マゴキ・アッタリ・モスクは土の中に埋もれていたのを1936年に掘り出されたモスク。
もともと周囲を掘り下げて作られた為、その歴史の中で土に埋もれやすい状態だったと思われる。

その歴史は非常に長く、ひと目見ただけでも建物の古さから歴史を感じ取る事ができるモスクだ。現在は絨毯博物館になってしまっているが・・・。

ガイド本によれば、壁面は3層に分かれていると書かれている。
このモスクは破壊と再建を繰り返しているため、このような構造になった。
なんとなく日本人なら完全に壊してから再建しそうなものだが、ここではそうではないみたい。

壁面の3層は多分この写真のような感じなんだろうと想像される。
よく見ると層の堺となるラインから若干建物が傾いている感じもある。

マゴキ・アッタリ・モスクからほんの北西に歩いて30秒程の場所に「タキ・テルバクフルジャン」がある。

「タキ」とはもともとは「交差点」の意味。
んで、単に交差点だけではなく、そこにバザールを形成し賑わってきた。
現在でも装飾品や帽子の店、お土産屋等の店がある。

現在ブハラには主に3ヶ所のタキがある。
「タキ・テルバクフルジャン」「タキ・サルガロン」そして「タキ・サラフォン」だ。
それぞれのタキでは多少趣向の異なった店が集まるが、土産物店は必ずある。

んで、まだ早い時間だったからか?もしくは観光シーズンから外れているからか?は不明だが、全然店は空いておらず。

「タキ・テルバクフルジャン」にも土産物屋はあるが、そこから北に伸びる道沿いにも、こんな感じで「いかにも!ウズベキスタン土産ですっ!」て感じの土産物を置く店が何件か並んでいた。

ここら辺で初めて店員に日本語で話しかけられた。いろんな意味でちょっと驚き。

最近観光地に行くと思うことだが、かつて日本人が金持ちだった時代の名残で、今だに日本語で話しかけてくる土産物店の店員て結構いるが、今どき日本語を勉強しても将来は無いだろうなぁ~と思う。今勉強するなら中国語だろう。

逆に観光地等で大量の中国人観光客を先導するヨーロッパ人が流暢に中国語を喋っている姿を見ると「あ~、先見の明があるなぁ~」と思う。まあ、中国ブームもいつまで続くか分からないが、しばらく続くことは間違いないでしょ。

さて、タキ・テルバクフルジャンから北へ5分程歩いた所にあるのが「ウルグベク・メドレセ」と「アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ」。なかなか見応えのあるメドレセが2つ並ぶ。

まず北側に鎮座するのが、ウルグベク・メドレセ。

こちらのメドレセは非常に落ち着いた感があるメドレセだ。
オーソドックスなメドレセで教科書通りと行った感じ。

中央アジア独特の「青い」装飾はそれほど多くなく。模様も派手さは抑えつつも、決して貧相な感じはかもしだしていない感じ。人間で言えば「大人の」って感じ。

ウルグベク・メドレセと向き合うように南側に建つのが「アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ」

こちらはすごく派手な造りと色使い。ウルグベク・メドレセを見た後だと、思わず「お~!」っと言ってしまいそうになる感じ。

ほぼ全面が青で装飾され、模様も凝っている。色使いも派手だ。人間で言ったら「イケイケどんどんの20代!」って感じか?

このメドレセはウルグベク・メドレセから200年も後に建てられたメドレセなので、ウルグベク・メドレセよりも派手な造りになるのは納得だが、それだけ社会状況も変化していったということも考えられる。

これらのメドレセから西の方角へ2~3分進んだ所に「カラーン・モスク」「カラーン・ミナレット」そして「ミル・アラブ・メドレセ」がある。

カラーン・ミナレットを最初に見た時に感想はとにかく「お~!高い!」の一言に尽きる。

写真ではその高さが全然伝わらないが、実際に見ると思わず声を上げてしまう程。

すぐ横にある「カラーン・モスク」と一緒に撮ると、その大きさがなんとなく分かるのではないだろうか?

「カラーン」とは現地語で「大きい」という意味らしく、その名に恥じぬ高さなのだが、ガイド本には「町のどこからでも見える」と書かれていたが、それほどどこからでも見えるわけではなかった。

「ミナレット」とは、人々に「お~い!お祈りの時間だよ~!」という意味の鐘をならず塔。しかしながらこんな高さにしたのは、昔キャラバンにとっての目印になるようにしたとの説もある。

この高さを保つ為なのか?地下には土台部分が10mももぐっているらしく、それもすごいなぁ~と感じた。

そんな感じで、カラーン・ミナレットのすぐ横にあるのが、カラーン・モスク。
これはモスクなのでメドレセ(神学校)とは違う、

ちなみに、このカラーン・モスクのと向かい合うように建つのが「ミル・アラブ・メドレセ」。んで、このモスクとメドレセを並べてみると、こんな感じでそっくり。写真を並べてみただけでは、どっちがどっちだか全然わからない。帰国後に写真を整理していた時、最初は同じものを撮っていたんだと勘違いしていたぐらいだ。

そんなこんなでカラーン・モスクに話は戻る。
こちらはモスクなので中央に広大な広場が広がるものの、周りの建物は1階建て。
この広い広場には1万人もの信者を収容することができたそうだ。

中央奥にはメッカの方向を示すくぼみもちゃんとある。

こんな立派なモスクなのだが、ソ連時代には倉庫だった。
というのも、ソビエト連邦の政治体制下では宗教は禁止だった。
宗教は麻薬と同じという考えで、「共産主義こそ素晴らしい」という考えを国民に広げた。
そのような考えを徹底した為、ソ連の体制下で活動していたあの「ガガーリン」も地球に帰還後には「宇宙には何も無かった」と言っている。
これは単に「何も無い」という意味で言ったのではなく、本当は「宗教で教えるような神様の存在は無かった」という意味。
要は「ソ連体制下が最も優れているんだよ」ということを言いたかった(言わされていた)のだ。

というわけで、話はちょっと脱線したが、そうやってソビエト連邦の政治体制下では、歴史的に価値ある宗教施設においても、宗教施設としてはほとんど使われず、倉庫等として使われているケースがすごく多い。

カラーン・モスクから出る時に、向かい側に建つミル・アラブ・メドレセがちょうどいい感じで見えたので写真を撮った。

カラーン・モスクからさらに西側に「アルク城」があるので行ってみた。

で、カラーン・ミナレットからアルク城までの間にちょっとしたバザール的な物があったので覗いてみたら、すんごいデカイ絨毯なんかが売られていた。写真では分かりにくいのだが、一緒に写っている人の大きさと見比べてもらうと、その大きさが何となくわかるんぢゃないだろうか?

建物の屋上から地面まで垂れ下がる大きさで「これ、どこに使うんだ?」ってぐらいの大きさ。
あまり興味深く近くで見てると「おぉ、兄ちゃん、絨毯買ってきたよ」と面倒臭い感じで声をかけられそうだったので、遠くから観察する。

アルク城はココブハラ発祥の地でもあって、ぐるっと高い城壁に囲まれて、周りに比べて少し高くなっている。

ここはかつての歴史の中で幾度も戦いの舞台になっていて、破壊と再建を繰り返している。
城壁の中で一つの町が出来上がっていたが、現在は博物館的な展示等がされている。その城壁の高さは写真下のように人間の大きさと比べれば一目瞭然だ。アルク城入り口の目の前はちょっと広い広場になっていた。

んで、実際にこのアルク城の中に入ってみたが、入場料がすんごい高い割に見どころは殆ど無く、何だか損した気分だ。

アルク城の前を走る車通りの多い通りを挟んで西側に「ボラハウズ・モスク」がある。

このモスクは王様専用のモスク。
アルク城のすぐ目の前にあるのは、王様がアルク城から直接歩いて行けるように立地を考えたもの。

建物の前には20本のクルミの木の柱があって印象的。
また他のモスクとは異なった様式で建てられているのも特徴だ。

地球の歩き方によれば、女性の見学は不可となっている。

ボラハウズ・モスクからさらに西へ5分ほど歩いた所に「チャシュマ・アイユブ」がある。

チャシュマ・アイユブは「ヨブの泉」という意味の名前。
昔「ヨブ」が水不足に苦しむ人々の為にココで杖を突いたら、水が湧きだして来たという伝説を持っていて、今でも中では水が(微妙に)湧きだしている。

ココはその歴史の中でどんどん立て増しされてきた建物なので、すごい歪(いびつ)な建物になってしまっている。
また、建物内は全然広くない空間なのだが、そんな観光スポットの中ですら、精力的にミサンガみたいな物を売ろうとする係員が居て結構がっかりする。

さて、このチャシュマ・アイユブ付近に来るとなんだか人が多くなって来るのだが、それもそのはず、チャシュマ・アイユブの北側には「デフコン・バザール」というバザールがある。ということで、またまたちょっと寄ってみた。

と、デフコン・バザールの敷地内に入ろうとしたら、いきなり最近の日本ではなかなか見ない形のトラックが、これまた最近の日本ではなかなか見ないぐらいの荷物の積み方でガッツリと荷物を積み、しかも「その車幅でココ通るには無理があるんぢゃね?」ってぐらい無理無理で通ろうとしていた。

最終的に通ることはできたのだが、写真左下の方に写っている肉屋の商品(これでも一応商品)とテーブルを脇に移動したりしていた。

さて、デフコン・バザールの北側に一瞬「ん?」と思ってしまうような「なんだか見たことあるような、ないような・・・」的なマークをいっぱい掲げた店があった。

とりあえず「バーガーの店なんだろう」ということは分かるのだが、このマークの使い方、色んな所から訴えられませんか?

そんなこんなで、デフコン・バザール内に入ってみると、こちらもかなりの広さ。

と、この類(たぐい)の光景は海外では良く見られるが、こんな感じでパンを車の後部に直置きで置いていた。それにしてもすごい量。

市場内で見かけた不思議な物体。
見た目はすんごく不味そう。
しかしながら、おばちゃんがちょっと試食させてくれたのだが、見た目ほど不味くない。表現が非常に難しいが蒸かした芋がすこしべっとりと水分を含んだ感じ。
何かの根っこかな?

そんなこんなで少しお腹が空いてきたので、そこら辺のお店で昼食。
そこそこ地元民で混んでいた店に突撃。
当たり前のように英語は通じないので、意思疎通に苦戦するが、何とか指さしとかで注文に成功。

まず食べたのが「サモサ」。
パイ生地のような(意外にも)サクサクの生地にお肉とかタマネギとかの具が詰まった食べ物。
こちらでは、肉の「脂」の部分もしっかり食べる文化のようで、中のお肉は赤身の部分だけではなく、細かく切った脂の部分もしっかり入っている。

味は若干濃い目なのだが、それほどクセも強くなく美味しい。

そしてサモサの他に頼んだのは、この「シャシリク」。

シャシリクとはこんな感じの「肉の串焼き」。
日本で言うなら焼き鳥の羊又はヤギ版と言ったところ。
ブロック肉を串に刺したタイプとミンチ状にした肉を串の周りに整形したタイプの2種類があって両方食べる。

想像通りの串焼きって感じでお肉感バッチリ。ブロック肉タイプのシャシリクは表面に強めに塩とかがかかっているので味が濃いが、一緒に食べる「ナン」がいくらでもいけちゃう感じだ。ちなみに店によっては表面にパン粉みたいな物をまぶしてある場合もあって、多少バリエーションがある。

日本で通常焼き鳥は、「肉・ネギ・肉・ネギ・肉」と言った感じで、お肉とお肉の間にネギがあるのが普通だが、こちらのシャシリクは「肉・脂・肉・脂・肉」と言った感じで、間にあるのが「脂」なのだ。
個人的にこれは若干苦手。しかしながら焼き加減によっては、表面がパリパリの脂だったりするので、脂好きにはいいかも・・・。

ちなみにこれだけ食べて8000スム。2016年1月現在2US$もしないぐらいの値段だった。安い。

「何という名前の店か?」っていうのをメモっときたかったが、表に看板も無く、何という名前の店か全然わからない。

あと、シャシリクは煙が出るからか?どうかは分からないが、殆どの店はこんな感じで店の前の外の部分で、煙モウモウで焼いている場合が多い。まあ、その方が通りかかった客も「うまそうだなぁ~」と思って入りやすいってところもあるんだろうけど・・・。

さて、お腹も満たされたところで、先ほど見たチャシュマ・アイユブ付近まで戻り、そこからさらに南西の方向に2分程歩いた所にイスマイール・サマニ廟があるので行ってみた。

イスマイール・サマニ廟は、中央アジアでも最も古いイスラム様式の建築物。
9世紀頃この地を治めていたイスマイール・サマニが彼の父親の為に建てた廟だが、後に彼も彼の息子もここに葬られた為に、結果的にサマン王族の霊廟となった。

この廟はモンゴル襲来の際には地中に埋もれていた為に、結果的に破壊されずに済んだ為、中央アジア最古の廟が今でも見れるってわけ。
現在では周りを見回してもこれが地中に埋まっていたなんて想像もつかない感じだ。

この廟の特徴はなんといってもレンガの積み方を工夫して建物を装飾している点。
派手な彫刻とかを施すわけでは無く、レンガの積み上げ方を工夫することで、こんな感じのすばらしい模様ができるのは、単純な方法だが良く考えられているなぁ~と思う。

イスマイール・サマニ廟から南の方向を見ると、観覧車が見えたので行ってみると、こんな感じの微妙な遊園地があった。
しかしながら、全然混みあった感じは無い。まあ冬だからってこともあるかもしれない。

さて、ガイド本に載っている見どころは、だいたい見てしまったので、町の中心部の方に戻ることにする。

ブラブラと歩いていると、なんだか良く整備されたモニュメント的なものがあったので寄ってみた。

先ほどの遊園地にまっすぐ向う歩道からそれるように、これまたしっかりと整備された歩道が伸びる。
どうやら一番奥に銅像みたいなものが見えるので進んでいくと…

こんな感じの女性の像が。
この像は、実在の人物なのかどうかは不明。
ネットで色々と調べてみたが、全然情報はヒットせず。
かろうじて見つけた情報によると、どうやら戦争関係のモニュメント(戦争で犠牲になった人を追悼する目的?)のようだった。

この銅像から南東方向には、アブドゥーラ・ハン・メドレセとモダリ・ハン・メドレセがある。

アブドゥーラ・ハン・メドレセとモダリ・ハン・メドレセは、それぞれが向かい合うように建てられたメドレセ。
2つ以上のメドレセが向い合って建てられるのは、ウズベキスタンでは普通のことなのかもしれない。
日本で言ったら、○○小学校と○○小学校を向かい合わせて立てるようなものなのかなぁ~?と思う。あまり日本ではやらないよね。小学校と中学校をすごく近くに建てることはあるから、もしかしたらそういった位置関係なのかもしれない。

これらのメドレセは、近くに同じようなメドレセが無いので、青色が綺麗に感じる。
目立たない場所にあるのに、えらく豪勢な建物にしたなぁ~というのが正直な感想。

ということで、中心街までブラブラと戻る。
正直、あちこちにガイド本にも載っていないようなモスクやメドレセがある。
そんな中、立派だったのが「Govkushon majmuasi」というメドレセ(もしくはモスク)。

Govkushon majmuasiの詳細はガイド本にも載っていないので不明だが、多分メドレセかモスク。

こんな感じで、もうあちこちにメドレセやモスクが目白押しなのだが、別の言い方をすれば「若干飽きる」と言っても過言ではない。

この旅の計画時には、ブハラの街の大きさが全然想像できなかったのだが、実際は結構小さくて、自分は早朝にブハラの街に到着して観光を始めてしまったので、ほぼほぼ午前中には見どころを見尽くしてしまった。

頑張ってゆっくり観光して、1日あれば十分。通常の(何が通常だかよくわからないが…)観光スピードだったら、半日あれば大抵の見ころは見れてしまうという感じだった。

そんなこんなで、昼過ぎぐらいから、宿でのんびり(お昼寝)してしまう(汗)。
と、気づいたら結構夕飯に良い時間だった。昼間宿の主人に「どこかオススメのレストランはないか?」と聞いたところ、「ラグマンだったらLagmannaya(ラグマンナヤ)という店がオススメだよ」と教えてもらっていたのだが、その店はお昼しかやっていないらしく「それだったらチナルというお店がオススメかな?」と言われた。チナルというお店は「歩き方」にも載っていたので行ってみることに。街の中心地でもあるラビハウスから東に5分程歩いた所にある。

ということで、チナルに入ってみると、「お~、確実に観光客向けの店だね」と言った感じで小洒落た感じのお店。

今のシーズンは観光シーズンから完全に外れているので、観光地でも観光客はほとんど見なかったが、それでもこの店には数組の観光客らしき外国人が居た。
地元の人らしき人もいたが「ちょっと金持ってます」的な感じの人ばかりだった(庶民は来ない感じ)

ということでまず注文したのがスープ。微妙に寒かったので温かい物が飲みたかった。

メニュー表には「Rice soup」と書いてあって、実際に来た物を見ると、普通のブイヨンスープにご飯が多少入っていた。意外に野菜もたくさん入っていて、体に染み入る美味さ。

「ウズベキスタンでは絶対にラグマンを食べたい」と思っていたのだが、まだラグマンを食べれていなかったので、ラグマンを注文。

ラグマンとは日本で言う「うどん」みたいなもので、生地を伸ばして麺状にする。もちろん「かつおだし味」とかではなく、トマトベースの味で、肉とかも入っている。野菜も肉も良く煮こまれていて、日本ではこういった味でうどんを食べることはほぼ無いけど、こういった味で食べるのもイイネって感じで美味い。(しかしながら、この後、嫌というほどラグマンを食べることになる…)

ラグマン以外でウズベキスタン旅行中に食べたいと思っていた物に「プロフ」がある。プロフとはチャーハンとピラフの掛けあわせと言った感じのご飯料理。
油をたっぷり使うようで、出来立ては美味しいが、作ってから時間が経過してしまった午後になると、あまり美味しくないという料理だ。

ブハラのプロフは千切りにしたニンジンや肉が上に乗っているのが特徴らしく、夜に食べたのだが、流石にレストランで食べたので、普通に美味かった。ただ、確かに脂っこい感じもある。肉も乗っているので、日本人にとってはちょっと重めかな?といった感じ。

ウズベキスタンと言えばナンだと思うが、意外や意外、ご飯も結構消費されていそうな感じで、市場とかには結構「米」も売られていた。米の種類も日本の米に近い感じで、インディカ米とちょっと違い、インディカ米と日本米の中間と言った感じで結構食べやすい。

ということで、お腹もいっぱいになったので、観光もすることなくそのまま宿へ。

途中ラビハウスにあるメドレセがライトアップされていた。これはこれで綺麗。今夜はブハラで一泊したら、明日は早朝からやはり電車でサマルカンドに移動。この旅のメインの場所へ…

これまでとこれからのウズベキスタン旅
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Day8 「歩き方」にも載ってない「古本市」の情報を確かめに行ってみた!

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