【ボスニア・ヘルツェゴビナ旅行記】Day3 国を二つに分ける境界って何?

昨日の1日でサラエボの見たいところはほとんど見てしまったので今日はどうしようかなぁ〜?と
思っていたのだが、旅人の性(さが)なのか、朝早くから行動を開始してしまった。

朝早くのバシチャルシァはやはり人がおらず静かで好きだ。

さて、サラエボの街中にはこんな感じの絵を良く見かける。これは「ベドラナのための真実を!(ISTINA ZA VEDRANA!)」という呼びかけ的な物で、この肖像は「ベドラナ」というサッカーが大好きなサラエボ在住のごくごく普通の男性。

ある日彼は警察によって殺害されたのだが、これについて十分な調査も公表も行われなかった。これに反発するように、街中にこの絵が書かれているのだ。

さて、ベトラナのことはさておき、今日はバシチャルシァから北東の方向にある
要塞跡に行ってみることに。この要塞跡については地球の歩き方には多少載っているものの、その詳細があまり書いてなくて実際に見に行きたかったのだ。

バシチャルシァのセビリ(水飲み場)から北に方向に急な上り坂があるので、そこをテクテクと登っていく。しかし登り始めは結構な急坂なので歩きやすい靴と服装が必要だ。

事前情報だと「結構遠く、登りがきつくて疲れる」と書いてあったので、気合を入れて登り始めたのだが、登りがきつくて疲れるのは正しかったが、遠いっていう程の距離ではない。お墓が見えてきたら結構すぐ着いてしまう。

途中にお墓があって、昨日オリンピックスタジアムの所で見たお墓とそっくりだった。これは内戦による犠牲者のものかどうかは不明。

そんなお墓の右側沿いの道を登っていくと、要塞らしき物が見えてくる。

日本人的には、それがどんな重要なものか?というのが分からずとも、「何となく重要そうな物」にはいたずら書きなんかしない気がするが、ここにはバッチリと落書きが。そんな落書きを横目に要塞跡に入ってみる。

実際に入ってみると、特に何か目立ったものがあるわけではなく、単なる高台といった感じ。ここは18世紀に街を守る要塞として建てられたものらしい。

といった、文化的な重要性を紹介されることは少なく、ガイド本には「ここから街が一望できるポイント!」といった、「眺めがすばらしい」的なものが推されている。

んで、実際に見てみると、「なるほど、こりゃ街が一望だ」と思わず言ってしまいそうな素晴らしい景色だった。昨日登ったツイストタワーはここと比べ物にならないほど高くて、そちらからの景色も素晴らしいのだが、旧市街からは結構距離があるため、旧市街の密集した街の感じは良く見えないが、この要塞からバシチャルシァは近い為、旧市街の様子なんかも見ることができる。

レンガ色の屋根がたくさん並んでいて綺麗。

さて、この要塞跡のすぐ近くに「vojarna jajce」というのがあったので、とりあえず行ってみた。

実際に行ってみると、なんだか廃墟みたいな感じの建物で、中に軍服を着た人がいたので、入っていいのかどうかわからず躊躇していたら、「Please come in!」と言われたので、入ってみた。正直下調べ等をしていなかったので、ここが何なのか?というのが全く分からなかったのだが、帰国後調べてみたところ、ここは1912年から1914年に建てられた、オーストリア-ハンガリアン兵士の為の宿舎兼病院だったそうだ。現在は完全に廃墟状態になっていて、ボスニア軍に渡され管理されているそうだ。なので、係りの軍人が居たんだと思われる。vojarna jajceについての詳しい情報は

を参照。

さて、この辺にはこれらの要塞や宿舎跡の他にも、城門の跡や城壁跡が残っていたりする。住宅街の中をテクテク下っていくと城門跡が見える。

これは南側にある城門。もう一つ北側にも城門があって、それらの間には城壁跡が見られる。

こちらは北側の城門跡。というか、こちらはボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領に関する博物館になっている。自分が行った時は朝早すぎて当然の如くオープンしていなかったのだが、興味がある人は覗いても面白いと思う。

昨日行ったツイストタワーやサラエボ中央駅の近くにある。バシチャルシァからは多少距離があるので、トラムで行くと楽々だが、自分は行動開始時間が早すぎてトラムで行くとまだオープン時間前となってしまうので、テクテク歩いていって時間調整。多少疲れるが全然歩いていけない距離ではないので、「軽い運動」と思えばちょうど良い距離だ。

サラエボ市街を東西に走るメイン通りは交通量も多くトラムも走る。内戦当時はこのメイン通りは「スナイパー通り」と呼ばれていた。

というのも、高い建物からこの通りは見通しが良く、高い建物の上にセルビア側のスナイパーが待機しており、この通りを歩く人や走る車を無差別に狙撃した。しかしながら生活上ここを通らざるをえない住民達は狙撃されないようにダッシュで駆け抜けなければならなかった。

そんなスナイパー通りも内戦では被害の激しかった場所で、このHoliday Innも相当な被害を受けた。しかしながら当時はジャーナリスト達の溜まり場となっており、営業もしていたそうだ。ここから世界中に内戦の状況が発信された。

このHoliday Inn付近の歩道にもサラエボのバラがあったが、やはり赤い樹脂は完全に無くなってしまっていて、何も知らずに見たらただの道の損傷のようにも見えてしまうかもしれない。

目的の歴史博物館の近くでHoliday Innにも近い場所には「国立博物館」もある。しかしながら2015年5月現在休館中だった。

この辺には何ヶ所か「サラエボのバラ」を見ることができる。しかしながら、赤い樹脂はやはり取れていた。

そんなこんなで、のんびり歩いていると歴史博物館に到着。ブロック状の建物なのだが、この外壁にも多数の銃弾の跡があった。

外観はかなり立派な建物で、これはたくさんの展示があるだろうと期待大で入ってみると・・・

あ、あれっ?結構小さい。何となく日本の地方の公民館で展示している感じで、一国の首都でやるようなレベルではない感じがする。日本の国立の博物館のような規模を想像してしまうと、結構拍子抜けしてしまうかもしれない。


さて、この歴史博物館は内戦当時の資料を展示している博物館。内戦が始まった経緯や、内戦で使われた武器や書類、はたまた一般人が使用していた生活用品なんかが展示されている。

この写真は内戦時市民が街中で砲撃を避けるように身をかがめている写真。タバコを吸いながら身をかがめている人も多く、いかに砲撃が一般的になってしまっていたのかが想像できる。

正直、この写真が一番衝撃的だった。路上に女性の遺体が転がっている。そしてその近くを歩く人はそれに無関心。きっと遺体が転がっていることが日常のこととなってしまっているんだろうと思われる。無関心な彼らが悪いわけでもなく、我々もきっと同じ状況になったら彼らと同じく無関心な状態になるんだろうと思う。

なったことが無いのではっきりとは言えないが、極限の状態では人の精神状態は正常ではなくなる。問題はそんな状況になるようにすることであって、我々に課せられた使命はそんな状況に絶対にならないよう努力することなんだと思う。

昨日訪れたオリンピックスタジアム跡のお墓は整備されていたが、内戦時にはこんな感じで仮の状態で埋葬されていたんだと思われる。

冬季オリンピックが開かれるような場所なので、冬はとても寒いんだと思われる。埋葬された地面の上に積もった雪がなんとも言えない感じで悲しい感じになっている。

さて2階の展示室以外にも、1階の廊下には内戦時と現在の建物の比較の写真が展示されていた。こんな感じで内戦時はめちゃくちゃになってしまっていた建物も、現在は完全に綺麗になっている。

日本も今や「昔戦争してました」なんてことは微塵も感じられない風景になっている。復興することはすごく大事なことなのだが、「2度と同じ過ちを繰り返してはならない」ってことを、戦争を経験していない我々がどう後世にしっかりと伝えていかなければならないか?ってことが、我々に与えられた問題なんだと思う。われわれがその課題を確実に解決しなければ、また同じ過ちが繰り返されてしまうってことを、肝に銘じておかなければならないんだと思う。

そんなこんなで歴史博物館の見学は終了。外のエリアには当時使われていたんだと思われる戦車や武器が展示されていたが、若干廃墟のようになっていた。リアルな危機感が感じられなくなってしまうんではないか?とちょっと心配になった。

歴史博物館の前には「Alta Shopping Center」というショッピングセンターがある。外観は完全に近代的でオシャレな建物。

特に目的はなかったのだが、中に入ってみると中も完全にオシャレ。よく外観だけは立派だが、中に入るとテナントの入居率が悪かったりするショッピングセンターは世界でも結構あるのだが、こちらはそんなことは無く賑やか。でも全体的に店舗数がすごく多いわけではないので、ゆったりとお買い物ができそうな感じ。地方のイトーヨーカドーの方がよっぽどゴミゴミした感じ。

もう一つの大きなショッピングセンターの「BBI Centar」の前の歩道にはサラエボオリンピックのロゴが書かれているが、だいぶ色あせてしまった感は否めない。

サラエボの市街には大きなショッピングセンターが3つあって、先ほどの「Alta Shopping Center」とその近くに「Sarajevo City Center」、そして「BBI Center」がある。どのショッピングセンターも近代的でオシャレ。そして規模が大きすぎないのでゆったりお買い物ができそうなところがグーだ。

BBI Centerのすぐ横のパン屋でこんな感じのうずまき型のパンを購入。サラエボではこんな感じの中に具が入っているパンを良く見かける。このパンの具はチキンで恐らく具材を入れた棒状の生地をうずまき型に成型して作るようで、だいたいどの位置にも均等に具が入っていておいしい。他の店でチキン以外にもカッテージチーズが入ったパンなんかも食べてみたが普通においしい。

実はお腹が空いていたので歴史博物館から適当なレストランを探してバシチャルシァ方向に向って歩いていたのだが、狙っていたお店が休みだったりして、適当なお店が見当たらず。んで、なんだかんだで結局バシチャルシァまで戻ってきてしまった。

バシチャルシァにはレストランが結構あるので、食べるのには困らない。そんなわけで地球の歩き方にも載っていた「モリチャ・ハン」に行ってみた。

喉が渇いていたのでレモネードを注文。と言うのも、サラエボに来る時のトルコ航空の機内食のドリンクメニューに「レモネード」と書いてあったので、言ってみたら「無い」と言われたので、何となく自分の中でリベンジ的な意味もあってレモネードを注文したのだ。

「どうせ、市販のレモネードをグラスに入れて出すんだろう」と思っていたのだが、ちゃんとレモンを絞った感じのレモネードが出てきてビックリ。適度な甘さが体に染み渡ってうまかった。

メニュー名を忘れてしまったが、こちらの方では一般的な郷土料理を注文。野菜と肉をトマトソースで煮込んだもので、サワークリームが添えられている。独特な感じの味はせず、日本人の口にも全然合うやさしい味の料理で美味かった。トルコとかの文化の影響を強く受けているせいか、どこで食べてもパンが普通に付いてきて、一緒に食べるとおいしいし、すぐにお腹がいっぱいになってしまう。自分はすごくお腹が空いている状態で食べたのだが、この一品だけでお腹いっぱいになってしまった。元気いっぱいの男子にはオススメな感じ。

さて、これからどうしようかなぁ~?なんて考えていてふと思いついたのは、「そうだ!境界に行こう!」と何となくJR東海の「そうだ!京都に行こう」的なフレーズをパクった感じの勢いで行ってみることにした。

何故か先ほどまで見学していた歴史博物館手前ぐらいまでトラムで戻り、クルバヴィッツァ地区の方向へ歩いていき、さらに南側にある山を登っていく。クルバヴィッツァ地区は内戦時に特に被害が大きかった地域だったらしいが、現在はそんな面影もほとんど見られなかった。

クルバヴィッツァ地区からは相当きつい登り坂が続き、車通りの多い道をひたすら登っていく。周辺は住宅街で「こんなキツイ坂に住むなんて大変だろうなぁ~」と思いながら登っていくと、気づけば汗だくになっていた。

ちょうど坂を上りきったところが境界となる。といっても「ここが境界です」的な露骨な表現や境界を示す線があるわけではない。

何をもって「境界」だとわかるのか?

境界を越えてちょっと進むとすぐに分かる。看板があってよく見ると、2つの言語で「東サラエボ」と書かれているのだが、まず上に「キリル文字」で書かれていて、次に「アルファベット(ボスニア語)」で書かれている。

そう、これまでのサラエボ市街ではキリル文字が使われていたとしても、最初に書かれていることはほとんどなかったが、境界を越えるとキリル文字が最初に使われているのだ。

逆に今登ってきた道を振り返って(サラエボ市街側に向う)看板を見ると「サラエボ県」とアルファベット(ボスニア語)のみで書かれているのがわかる。

境界、境界と言っているが、この「境界」とは何なのか?

これは内戦後の分け方なのだが、ボスニアの内戦はNATO軍の空爆で停戦となり、その後終結したことは、Day1にて述べた。
その時クロアチア人やムスリムで構成される「ボスニア側」とセルビア人で構成される「セルビア側」をどう共存させるか?ということを協議した時の結論として、「居住区域を分ける」ということになった。要は1つの国を実質上2つの自治区に分けたのだ。

主にクロアチア人やムスリムで構成される人たちの居住地は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と言い、セルビア人で構成される人たちの居住地は「スルプスカ共和国」という。ちなみにネットのGoogle Mapにて「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とか「スルプスカ共和国」とか検索してみると、正確ではないがこの図のようにその区域が表示される。

ちなみにサラエボは「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」の中に位置するが、今回のように歩いて行けちゃうぐらいの距離にスルプスカ共和国との境界が存在する。

内戦前はこんな明確な境界は無く、それぞれの民族や宗教の人たちがそれなりに仲良く暮らしていたのだが、内戦の勃発によってこのような境界を作ることで何とか平和を保っているというのは皮肉なことだと思う。

境界付近はこんな感じになっていて、この写真はスルプスカ共和国側から撮ったものなので、手前側がスルプスカ共和国で、向こう側にいくとボスニアヘルツェゴビナ連邦側となってサラエボ市街へ行く。

現在は特に検問所みたいなものがあるわけではないので、何も知らないで行けば境界の存在など気づかないで通り過ぎてしまう場所だと思う。

スルプスカ共和国側へさらに進んでみるとやはり道路にある道案内の看板は、最初にキリル文字で書かれていて次にアルファベット(ボスニア語)で書かれていた。

スルプスカ共和国側を見てみたら、サラエボ市街とはちょっと違って「のどかな田園風景」といった感じの風景が広がっていた。

あくまでも「知識」として知っておいた方がいいことは、内戦は終結したが、ボスニア側とセルビア側双方のわだかまりも内戦の終結と共に無くなったわけではないということ。なので、何となくそんな空気も感じる面がある。

というのも、この境界付近で昼間から軽く酔っ払っている若者に軽く絡まれた。それは特に問題ないのだが「この辺で何やってるんだ?」と聞かれて「この横にあるメモリアルパークを見たかったんだ」と適当に答えたら、「だったらなんであっち(スルプスカ共和国側)から来たんだ?」みたいなことを言われた。一応こういった知識は持っていたので「道に迷ったんだよ」と適当にあしらっておいたが、この土地のこういった経緯を知らないで変な発言をうっかりしてしまうと、トラブルに巻き込まれる可能性もある。

ここに限らず、「世界にはそれぞれいろいろな歴史があって、いろいろな感情がある」ってことを知っておくのは大事なことだし、損は無いと思う。まあ、それが海外旅行の面白い所なのかもしれないが・・・。

この境界付近に「Vraca Memorial Park」という、何となく「山の中に隠れた公園」的な公園がある。

ここは第二次世界大戦で無くなった人たちの慰霊碑的な物があって、11000人ぐらいの男性や女性、そして子供の名前が刻まれている。

普通、日本だったら(日本に限った話ではないかもしれないが)こうゆう場所に落書きとかありえないと思うのだが、ここにある慰霊碑的な物には落書きし放題だった。

一応、花が飾られてはいるが、草は伸び放題だし全然手入れがされていないし、どうなってるの?と言う感じ。

我々はボスニアの内戦については直接関係していないし「あ~、そんなつらい歴史があったのね」ぐらいの気持ちで、自分のように興味があってその場に見に行って、何となく「こんなつらいことは絶対に忘れちゃいけないし、繰り返しちゃいけないよね」なんて分かった口をきいて善人ぶっているが、実際にそんな状況を体験した人にとっては忘れたい歴史かもしれないし、触れて欲しくもない事なのかもしれないと感じた。

ちょっとだけだが、現地に住む人と彼らの現在の状況や空気・感情なんかを感じられた気がして、登り道がつらく大変だったが、境界付近を見るのは良い勉強になったと思う。

さて、サラエボ市街に歩いて戻る。帰りについでに3つある大きなショッピングセンターの1つである「Sarajevo City Center」に立ち寄ってみた。

こちらもこんな感じで超近代的でオシャレなショッピングセンターだった。やはり混みすぎていないところが居心地が良くていい。

そんなこんなで、バシチャルシァ付近に戻ってきてそこら辺をぶらぶら。

サラエボ事件現場からちょっと南に行った所に「日本大使館」があった。玄関横には小さくてかわいい日本人形が飾られていて、日本人気質が見えた気がした。

日本大使館から少し東側に行った所に深いレンガ色の壁が印象的な「Crkva sv.Ante」という教会があった。この教会は地球の歩き方とかには紹介されていなかったので詳細が分からないが、現地のフリーマップとか観光案内の冊子では押し押しだったので、結構有名な教会なのかもしれない。

サラエボみたいな海外旅行先としてはまだまだマイナーな場所は、日本で入手できるガイド本なんかでは全てを網羅しきれていない部分も多い。現地の観光インフォとかにあるガイド冊子なんかも結構使えるので利用してみるのもいいかもしれない。

そんなこんなで、サラエボ観光は本日で終了。良くも悪くもいい勉強になった。ということで、明日はトルコに飛び、イスタンブールを少し観光してみる。

ここまでとこれからの中欧旅
Day1・2 サラエボって本当はどんなとこなんだろう
Day3 国を二つに分ける境界って何?
Day4 自作 vs 本場のサバサンド 勝つのはどっち?!inトルコ
Day5・6 パムッカレは日帰りで十分だったぁ?
Day7 イスラエルの「黄金のドーム」がこんなところに!?
Day8 世界で一番美味いケバブはベルリンにあったぁ!?
Day9 あの騒乱があったウクライナの独立広場は今!?
Day10 ローカルバスで世界遺産へ行こう!
Day11 ヴィエリチカ岩塩抗ってどうやって行くの?
Day12 アウシュビッツで思うドイツ人と日本人の違いとは…?
Day13 最大の見どころワルシャワ旧市街は工事中だったぁ?

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